マルチタスク人間のすすめ
〜 対話式教科書エミュレーションエッセイ 〜

(序)


「そもそも問題は、大学教授が個人秘書を雇えないことだ」
「だから雑用事務仕事を我々がやることになるわけですか」
「我々、っていっても。助手の先生や、雇われ用心棒の無宿浪人みたいな身分の僕と違 って、君は院生だろ」
「国民皆兵的な研究室さえあるみたいですね」
「それでも院生はまだマシなのだ。本職の社会人研究者ともなれば、論文書く 暇すらなく事務書類作成に追われる日々と聞く。今以上に雑用が増えると思っ ただけで就職をためらうね」
「うう、言いわけがましいなあ……」
「愚痴っていても始まらない。現代の加速度的な地球環境変化に直面してしまった生物 たちのごとく、我々も研究者をとりまくかかる現状に適応せねば明るい未来はありえな いのだ」
「やれやれ、適応すりゃあ未来が拓けるかのよーに言いますね」
「……」

(ハード)


「で、それと Linux とどーいう関係があるんですか」
「生態学 系研究室の多くは 2OS 共存環境だ。なじかはしらねどこの分野の多くの研究 室では、数年前まで Mac が主流だった。しかし最近の新入生は大半が Windows ユーザなんだから、よほど狂信的な研究室でない限り Win に侵入さ れ始めているはず」
「ただでさえ混乱してるところ へ OS 増やしてどーすんですか」
「Linux はこの狂信的状況をク リアするパワフルな技と情報を提供してくれる。僕みたいな立場のところには、 研究室内部だけでなく、遥か遠方の OS も知れない相手からも、なんちゃらい う Mac のアプリケーションでは添付書類が開けないとか、どーちゃらいう Win-specific な形式でなければ書類を受け取りませんとか、テロまがいなメッ セージがしょっちゅう届くもんだ(しかも急いでる時に限って)。そんな時一台 Linux 機があると、大抵のことは『力技』で何とかなる (※1) 。もちろん他 OS のこ ともよく勉強しとかなくちゃいけないけどね」
「そう言いますけど、Linux 使ってるおかげでしょっちゅうトラブってません か」
「某社製プリンタ問題、 (※2) あれは本当にひどかった。日本は Windows 万歳な周 辺機器で一杯なんだ、と思い知らされた」
「うー、それでも Linux を使うんですか」
「じつはそんな根本的な話じゃなくて、バカバカしいことなんだ。ずばり、 Linux はマルチタスク」
「……何いってんです。Windows だってマルチタスクでしょ (※3)
「そのとおり。しかし Linux はある面で Windows より絶対的に勝っている」
「と、言うと?」
「Linux を使えば、というより正確には X を使うことで、人間マルチタスク が可能になるんだッ(バアアアー ン)」
「にっ……、人間マルチタスクウーッ……!?」

(ソフト)


「などとジョ◯ョ(いやリ◯カケ?)ごっこをしていても始まらない。ようは、 Windows は確かに同時にいろんなアプリケーションを動かせるが、使っている 人間は基本的に一種類の用事しか済ませられないんだ」
「そりゃそーでしょう」
「ところが X を使えば、人間サマもまったく異なる作業を同時進行で進める ことができる。説明するのも阿呆らしいが、たとえばワークスペース (※4) 1 では エディタを開いて論文を書き、2 では表計算ソフトを用いてデータを閲覧しな がら 別のエディタでデータ処理用の Perl スクリプト書く。もちろん 3 では メールソフトを常時開けといて依頼やクレームや連絡事項に随時対応せねばな らない。依頼に応じて、4 でもひとつエディタ開いて頼まれ Perl スクリプト を修正しながら裏で走らせ、ついでに gnuplot も呼び出して結果をプロット し目で確認……」
「……」
「精一杯、バカにした顔してるな」
「それって、シングルタスクじゃないですか。某 Mac と同じ (※5) で、すごい早さでジョブを切替えてるだけでしょ」
「しかし脳味噌の中では常に他のジョブの進行状況を把握してて、自在に中断 したりもどったりするんだから、マルチと言った方がいいような気がする」
「千手観音じゃあるまいし、そんなんできるわけないじゃないですか」
「できるわけないって、ここ最近の僕はまさにそーいう状況なんだぜ。そして、 はっきり言ってこの方法は『お勧め』だと気がついた」
「そんなに沢山のジョブを並行させてたらどれか一つくらい忘れちゃいますよ」
「そう、やりかけのジョブを忘れないためにも X を利用することだ。『やりかけの仕事を忘れない』 ……これは雑用さら りーまん研究者にとっての至上課題といっても過言ではない。知り合いに聞い て回ったところ、誰もが『仕事の途中で雑用が入ると、どこまで仕事が進 んでいたのかわからなくなって、時間のムダがすごく多い』とボヤいてた。 論文を書きかけで一旦中断、とかいうとき、論文書きにつかっていたターミナ ルを開きっぱなしで置いといて、別のターミナルを開いて雑用をする。にさん ち経ってから雑用が終ったらもとのターミナルを見れば、中断する直前にどの 書類を編集していたのか、どんなコマンドを使ってたのかが分かり、すぐに作 業にもどれるってわけ」
「まさかとは思いますけど、ターミナルを開きすぎてどれがどれだか……てな ことになりませんかね」
「ほんの短時間の用事で済むことが分かってるなら、カレントディレクトリを pushd しといて移動し、あとで取りだすとかね (※6) 。その場合、移動直前の動作は 分からなくなるけど」
「その程度のことなら他の OS 上でもできそうですね……」
「ディレクトリを開けとくとか? かなり欝陶しいね」

(シングルタスクの勧め)


「しかしそんなにうまく行くもんですかねえ。所詮人間は、多くのことを一度 にはできないような気がします」
「僕は昔、臨床医療の仕事に就こうとして親 (※7) に止められた。臨床医療は多数の 患者の状態をリアルタイムで把握し、適切な処置をとることを求められる、い わば人間マルチタスクの最たる世界であり、かかる事態に僕は到底適応 できんだろう、というのがその理由。そんな僕でも訓練しだいである程度は出来 るんだから」
「それは説得力があるかも……」
「なーんて言いながら、昨日はヤカンかけっぱなしで本を取りに出て行って忘 れてしまって、四回生に怒られたけど」
「……」
「どうでもいいことを主張してきたが、シングルタスクを追及するというのも 一つの生き方だね」
「いきなりひっくり返すようなことを言わないで下さい」
「つまり、もう自分にはこれしか出来ませーんと割り切って許容量以上の外部 アクセスを絶ち、己の欲するままに時間を配分するというやり方だね。院生の うちは特に有効かもしれない」
「そんなムタイなことが許されますかね」
「あのねえ君、研究室をぢーっと観察してごらん。なんだかよく仕事を頼まれ てウロウロしてる人と、何故か座りっぱなしの人がいるでしょう」
「そういえば、そうですね。出来る人にしか頼まないからじゃないでしょう か……いや、あれ。そうでもないな」
「そう、『物を頼まれない才能』もあるってことだ (※8) 。人相が悪い、態度が悪い、 人が悪い、やりかたを知らない……あるいは、『出来ないだろうと相手に思わ せる』これだ。出来ないと思えば頼まないでしょ」
「は、はあ……?」
「別に嘘をつけとか言っているわけではない。余裕をもって出来る範囲の仕事 しか引き受けない、自分を過信しない。そうしていれば、自ずと相手も頼む仕 事の量を加減するようになる。頼まれないからやらない、ってのは、頼まれる けどやらない、よりよっぽど印象がいいでしょ」
「うう、それはそうかもしれないですけどぉ……」
「んなこと言ってる君みたいな人は、ストレス溜って自滅しやすいから気をつ けることだね (※9) 。だいたい、有無を言わさず仕事を持って来るタイプのボスには そんな手は効かないしね」
「ううう、結局どうすれば……」
「僕も、こういう身分でありながら今いちよくわからない。でも、一日中頼ま れ仕事だけで終った日はせつないから、やっぱ細切れの空き時間をつかって ちょっとでも何かをすることかなあ。一行でも論文を書くとか、一つでも解析 結果を出すとか……。そうやって、帰り道や風呂の中で考えることを持って帰 ると、気持ちが楽になるかもよ」
「それで結局、論文は出てるんですか?」
「……」