有珠山 (Mount Usu)
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- 有珠山 (Mount Usu)
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大有珠、小有珠、昭和新山、明治新山(四十三山)、等10 程度の溶岩ドーム + 2000年火口群
本体: 周囲を外輪山に囲まれ内部に大有珠(標高727 m)・小有珠等。その間に火口原
1963年以降の噴火 (History of major eruptions after 1663)形成
洞爺湖: 約13万年前に大規模火砕流 → 軽石等大量放出 → 噴出口付近が陥没しカルデラ形成
有珠山: 約1万年前 - 洞爺湖南岸で噴火を繰り返す 成層火山 = 有珠山誕生約7000年前に山頂部が南側に崩壊、山頂部の崩壊を埋めるように円錐状火山体が成長
噴火記録数千年ない → 1663年 活動再開 - 2000年火口群
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大きく、金比羅火口群、西山火口群の2つの火口群に分かれている。
2011/10/01. 幼稚園跡からの登り道にて ______________________________
西山火口散策路利用の注意
- この散策路は周遊路ではありません。
- 木道、ロープ柵から出ないで下さい。
- サンダル、ハイヒール等では、事故につながる可能性があります。
- 雨のあとは、散策路が滑りやすくなっていますので、足元に注意して下さい。
- ここでの事故はすべて自己責任となりますので、充分注意して下さい。
- ここは支笏洞爺国立公園内です。石、植物は採ったり持ち帰ったりしないで下さい。
洞爺湖町
- 四十三山
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明治43年に噴火したのが名前の由来。
(見出しにはルビがふってあるが省略) ______________________________
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北海道自然歩道火山街道 Kazan Kaido
洞爺湖湖畔をめぐる道 II
Lakeside Observation Trail II
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支笏洞爺国立公園
Shikotsu-Toya National Parkコース案内図
■四十三山コース 洞爺湖温泉側入口~旧北海道大学有珠火山観測所 2.45 km (約1時間)
有珠山は20世紀、4回噴火しています。最近では、2000(平成12)年に西山西麓、金比羅山で噴火しました。1910年(明治43)年の活動では、この自然歩道の周辺に45の火口が生じ、溶岩の上昇により四十三山(明治新山)を形成しました。 この活動により破壊された火口周辺の森林、植物は、約100年という長い年月を経て再生しました。2000年火口周辺と対比すると自然の「破壊と再生」を体感することができます。
- プロビデンス号 (Providence)
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道の駅で
英国船「プロビデンス号」虻田に上陸
The British ship "Providence" Lands in Abuta
寛政8年8月14日(1976年9月15日)、イギリスの探検家ブロートンが率いるプロビデンス号が虻田沖(入江)に来航し、碇泊た。
場所請負人による収奪と横暴に対するアイヌの最後の組織的な抵抗となった「クナシリ・メナシの戦い」から1年後のことである。
急報に接した松前藩は、藩士を派遣したものの言語通ぜず、8月25日(9月26日)、あらためてロシア人応接御用をつとめた経験をもつ藩士を派遣して船内を見分、北日本の島々の海図の模写を許可して退去を求めた。
この間、プロビデンス号の乗組員は、ボートでホロナイ川の河口に上陸、飲料水を汲み、ホロナイヌプリ(清水の山)から薪を伐りだして帰船した。
このいきさつについては、遠島タネランケ媼のユーカラによって語り継がれている。
8月28日(9月29日)、プロビデンス号は、エトモ岬に移動、モロラン(室蘭)の湊を調査、8月30日(10月1日)恵山岬に向け、出帆した。
船長のブロートンは、噴火湾(内浦湾)の命名者として歴史にその名をとどめている。
プロビデンス号の虻田来航は、江戸幕府に大きな衝撃を与え、蝦夷地の警備やアイヌ問題は、松前藩に任せることはなく、幕府が直接具体的な対応策を講ずるべきという意見が幕府内に急速に高まってきた。
これを受けて幕府は、近藤重蔵・伊能忠敬などによる測量や探検、幕府役人の蝦夷地調査や巡検を進めるとともに、東蝦夷地を松前藩から取り上げ、箱館に蝦夷地奉行を置くなどの施策を講じた。
八王子千人同心を蝦夷地に移住させての警備と開拓、有珠善光寺をはじめとする蝦夷三官寺の建立、有珠・虻田牧場の開設、南部・津軽藩による勤番所(陣屋)の設置と藩士の常駐も、このような情勢から生まれた施策であった。
その後も蝦夷地周辺を含む日本近海への外国船の接近、来航はさらに頻繁となり、嘉永6(1853)年、アメリカ東インド艦隊司令長官ペリーが軍艦4隻とともに浦賀に来航、翌年「日米和親条約」が結ばれ、下田・箱館の2港が開港となり、長年の鎖国制度に終止符がうたれた。安政元(1854)年のことである。
プロビデンス号の虻田来航は、日本の開国への大きなステップの一つであったといえよう。そして、同時にこの地域における国際交流、国際親善の始まりでもあったのである。