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露崎 史朗 (Shiro TSUYUZAKI)
植物群集生態学・環境保全学

有珠山/サロベツ泥炭採掘跡
1986年, 2006年の有珠山火口原. ワタスゲ・エゾカンゾウ
2002年1月19日 「同情するなら...」部分アップロード (2010年1月1日更新)

同情するなら職をくれ

はじめに

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* 幾つかコメントを頂きました

当時の心情を思うに、北大が美化されてる以外に起こったことは 事実 です。
だから期限付き助手は反対なのです。
期限付き助手」は、他に「期限制助手」、「任期付助手」、「任期制助手」と呼ばれ、身分も呼称も保証されてない。

大学職組新聞等に(無断)転載されてるようですが、転載自体は大歓迎です。
1996.5.22. こぶし. 高知大学教職員組合機関紙. 33号

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北大時代からこれまでの思い出つれづれ

平成7年度 北海道大学理学部同窓会 誌 (1995) pp. 32-33

露崎史朗 (1984年度卒業、植物学専攻課程)

 「同情するなら職をくれ!」と安達祐実風に私は叫んでいた。現在私は新潟大学大学院自然科学研究科の一応の助手ではある。しかし、この助手は変則的で新潟大学大学院自然科学研究科規定集の新潟大学大学院自然科学研究科助手専攻内規「大学院科学研究科に所属する助手の選考についての申合せ事項」に「概ね3-5年を目途として各学問分野のローティションとする」と書かれており、公にできない期限付きの助手らしい。この怪しい期限を理由に先日、日本学術振興会の日米科学協力事業共同研究*を申請したら「来年も当研究科に所属することを前提とした科研申請は認められない」のだそうで、私の知らない間に講座主任(ここに実名をいれても誰も知らないでしょうから止めておこう)の判断とかで申請が取り下げられていた。

 ということは、新潟に来てからはや5年が経過しているわけだ。私個人としては、別に来年もここに居るつもりではなく、大学を移れば移動届を出せばそれで済むことだし科研の採否の判断は学振がすることであると思うのだが。「こんなの研究妨害だ! いつか文部省に訴えてやる。しかし、まずはこういう腐った所は出るべきだ。」と思っていた矢先に同窓会の原稿依頼がやってきた。

 *: 2000年に日本学術振興会に、その時の内容を元に申請すると採択され、2001年夏には何の妨害もなく無事研究を行うことができました。どこぞの大学教員軍団とは全く違う、日本学術振興会のスタッフの方々には心から感謝いたします。


 この話には続きがあるので、ここに記します。 新潟大学職組 新聞掲載の一部分(この原稿と重複する部分を省略)

「同情するなら職をくれ!」 その後 - 研究妨害とはこのことだ

新大職組新聞 467: 3-4

 この原稿aを書いたときは、まだ新しい職のあてもなく、心底「職をくれ! 」状態であった。そして、この原稿が印刷されたのは11月位で、なんとか1月には引っ越せる状態になったときである。自分は何もしなくても、なぜかこの同窓会誌のコピーがあちこち出回っているらしく、さまざまな反響が私の知らないところで起こっているらしい。そんな関係で、この原稿を依頼された次第である。ここでは、この出来事の詳細を私の知る限りでお伝えしたい。なお、これは私サイドからの見解であり、これに対する反論bをいずれ期待している。

a: 北大理学部同窓会誌に書いた「「同上するなら職をくれ」、つまりこの文章のこと
b: 当然ならが、当局からは現在まで一切コメントなし

 その前に、この話には訂正と続きがある。まず、訂正は科研申請を取り下げる(学術振興会に提出しない)判断をしたのは、大講座主任だけではなく研究科長も関係していたことである。事務からの電話で、そういっていた(しかし、こういう電話をさせられた事務の方もかわいそうではありませんか)のだが、同窓会原稿のときには頭に血がのぼっていて適当に書いてしまった。一人だけ悪者にしてしまった大講座主任に「ごめんなさい」。また、この申請却下の電話は申請締切が終わったあとにあり、もはやゴネても手後れという状態のときにあったもので、思わず電話の向こうに、「新潟大学の考えていることがよくわかりました」と怒鳴ってしまった。電話をくださった方に「ごめんなさい」。あなたが悪いわけではありません。こういう卑怯なやり口をして平然としている人間の存在が悪いに決まっている。続きは、この科研は日本側と米国側が同時に申請するもので米国側はNSFによって採択が決定されたことである。しかし、規則で日本側の申請がない場合、採択見送りとなるのはご承知の通り。従って、結局米国側の申請は徒労に終わった(400万払え、この野郎。どうやって、向こうに言い訳したと思ってんだ)。さらに、誰だかが不明なのだが、この科研をふいにするとどめを刺した大嘘つきがいたようだ。

 NSFは米国側の内容がOKなのに日本側の申請がないのを不審に思い7月位に申請確認の電話をこちらにくれたそうである。ところが、その時私はシベリア調査で不在でした。代わりに電話を取ってくれた親切な人がいたようである。それが誰か分からないのだが(この犯人を教えて欲しい)、「手続きミスで申請ができなかった」と答えたそうだ。これは、ありえない。私は出したぞ! NSFの担当の方は本当に親切で、11月位にもう一度私に再度確認の電話をくれた。その時、7月にそのような応対があったことを教えてくれた。11月の電話の話では、7月に申請を出せば、まだ間に合ったそうで残念がっていた。返す返すも悔しい。

 さて、私なりに問題を整理したい。まず、期限付き助手は「来年度もここにいることを前提とした研究は認められない」のだろうか。しかし、期限付きは十分承知しているのだから、どこの誰が「ここにいること」を前提として科研の申請をするのだろう。繰り返しになるが、ここにいるから、ここで科研は出すしかない。他にやりようがないからそうするのである。そういえば、今年のシベリア調査も行かない方がいいようなことを言われたな(冗談じゃない)。ついで、「だからこそ、一切の来年度以降の研究申請は認められない」のだろうか。科研なしという劣悪研究環境を創出して、「期限が来たら出て行け」という論理は私には全く理解できない。この筋を通す方法はただ一つ。5年経ったら何があろうと首にすることである。しかし、上述のように、私は首にはならなかった。首にはできないのだから(もっと先に首をはねるべき人がいるだろう)。こういうことをされれば誰でも出て行きたくはなるが、このような研究妨害をしたら、ますます期限間近の助手は研究ができなくなり、出られるものも出られなくなってしまうと思うのだが。業績なしで移る。これは、今の時代非常に厳しいのは承知の通りである。科研申請差し止めは人の研究を阻害する行為に当たることは間違いないと私は思っている。ちなみに、正当性があるならば、直接本人に言えばよいものを私は、事務からの電話だけで当の研究科長や講座主任からその旨を聞いたことはないのだが。

... 同窓会誌に戻る

 私は1980年北大理Ⅲ類に入学し、何故か留年もせず1982年に理学部生物学科植物学専攻課程に移行し、さらに何故か留年もせず1984年に卒業できた。その後、理学部を離れ北大大学院環境科学研究科で修士課程を過ごし一年間の研究生生活を経て再び北大大学院理学研究科(とはいっても低温科学研究所)にいた。その後、日本学術振興会特別研究員を若干の期間経て現職にある。「皆さん職を下さい(文章中にサブリミナル効果はあるのだろうか)。」従って、回想を書こうと思うとどれが理学部にいた時の記憶なのかが極めてあやふやなものが多いので、これは確かだということを書いておきたいと思う。

 植物学教室は当時、分類、形態、生理そして教養と3ないし4講座体制でなりたっていた。しかし、分類の黒木先生が亡くなられ、形態の谷藤先生、生理の佐々木(昭)先生は退官なされ、さらに改組で植物と動物を分けなくなった今と私がいた当時とでは教室の雰囲気も大分違うことと思う。そこで、話の種としてこれまでのことを幾つかここに書き留めておこう。

 「何故卒業出来たのだろう。」谷藤先生が関与していたことは間違いない(当人は知る由もないが)。当時、植物学教室の学生は15人であった。結構個性的な人物が揃っていて、皆目的意識がはっきりしていたように思う。私は分類の授業は結構出たつもりでいるが(しかしこれも平均値を下回るかもしれない)、形態や生理の講義実験となると、その内容はほとんど記憶にないくらいひどいものだった(実際出ていないのだから覚えているわけもない)。逆の行動パターンの人もかなりいて、分類のスケッチは人の写し専門の人もいた。しかもそれがオリジナルより美しい。谷藤先生は当時細胞生物学ⅠとⅡの講義とそれに関係する講義実験を持っていたように思う。私は細胞生物学Ⅱの講義は一度も出席せず試験すら受けていない(こんな学生もういない?)。しかし、単位はついていた。これで卒業必要単位が足りたようなものだ。あげくに、植物生理学IIの講義は履修願いすら届けておらず、植物学教室の学生全員が履修しているものだと思った佐々木(昭)先生があとで、「一人履修届けがでていない」とあわてたそうだ。(私は農学部で植物分類学の講義を同じ時間に受けていました。佐々木先生ごめんなさい。) 卒論は分類の黒木先生のところで過ごした。当時の分類学教室の卒論生は4名であった。

 他の3名はナンタラカタラの海藻の分類学的研究あるいはドコソコの海藻フローラについてがテーマであったが、私の卒論は 有珠山の植生回復 がテーマとなった。その年、黒木先生にとって私たちは最期の卒論生にあたり、学生個々人に好きなテーマを選ばせてくれた。私は高等植物を材料としたかったので、こういうこととなった。自分で選んだテーマだけに、結構全員真剣に卒論に取り組んでいたように思う。更に、黒木先生の脅しともとれる発言も忘れない。「僕(黒木先生)は何もしないから、就職・進学等の活動は皆自分でするように。」本当に何もしなかった(これがかえってものすごい効果があった。)だがしかし、卒論を出さずに卒業した大物もいる。私は現在でも有珠山の調査は継続しており、黒木先生によって植物生態学研究者のはしくれとさせて頂いたような気もする。そのおかげで、合州国セントヘレンズ山の調査や、中国の湿原シベリアのツンドラ・タイガを見ることができた。特にセントヘレンズ山では火山植生の比較研究の様々なアイデアを得ることができ、また滞在生活も家族と共にエンジョイできた。帰国後には、 日本植物学会奨励賞 も頂いてしまった。

 卒論の後、環境科学に移り更に低温研に移ったわけだが、理学部と全く縁がなくなってしまったわけでもない。特に印象に残っていることとしては、低温研に移る時には増田先生がからんでいたことである。当時、環境科学の指導教官から「お宅のような学生はドクターにとらない」と言われ(何が悪かったのだろう)、博士課程には進学せず(できず?)研究生でいた私は自分の身の置き場に困っていた。その時、フセインの影武者からある指令を受け、雪の中を増田先生に「低温研の博士課程に行きたいんですけど」とお願いに行った記憶がある。清水次郎長ばりの増田先生は、「○○には内緒だぞ!」と言いながら指導教官となる吉田(静)先生に会わせて下さった。ここでも私の人生は大きく変わってしまった。また、当時植物学教室では学部3年生を対象として幌見実習なる陸上植物の採集実習があり、それに博士時代まで毎年お供をさせて頂いた。私が学生だった時には、スカート、シューズ姿で実習に参加し大騒ぎしていた女の子がいたことも忘れない。実習は、水だらけの沢でやります。私は長靴で行きました。

 植物学専攻課程には吉田先生が2人いる。一人は分類学教室の吉田(忠)先生、もう一人は前述の吉田(静)先生である。分類の吉田先生は、私が真面目に出た数少ない講義の一つである植物分類学II (主として陸上植物) を受け持たれ、その物静かな授業は教室随一であったろう。笑えない冗談をいうのがたまに傷であったが。低温研の吉田先生は、本年(1995)還暦を迎え2月にささやかながらもお祝いをさせて頂いた。昔通りの元気さとヘビースモーキングと御変りのないご様子であった。[質問]北大の多くの先生はどうして皆、若々しいのだろう。低温研の吉田先生には、徹夜開けの教室でシュラフで寝ていたところを発見されたり、コンピュータに一寸した遊びをさせていたところを見つかったりしたが、当時の院生は皆あのようだったような気もする。

 札幌を離れ5年が過ぎた今思うに北大の自由な雰囲気と、そして「Be ambitious!」の精神は貴重である。自分が教官となって自覚させられることは、研究成果を上げていない人間が大学院の学生を指導できるわけがないということの一語につきる。いらぬ親切余計なお世話(=これ即ち研究妨害)ばかりする人間にはなりたくない。仕事をしていないとどうしても、示唆を与えたつもりがただの邪魔になってしまうようだ。そういう意味では、活発な活躍を続けている、植物学教室、低温研、地環研の皆様の研究活動は私にとって大きな刺激である。今後とも、少なくとも大学院においては研究を基盤とした教育が必要となることは言う間でもないことなのだが、私の周辺では現実とのギャップは大きい。(今の気分は 安達祐実 。)

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教官の研究活動状況

新潟大学大学院自然科学研究科研究教育活動報告書 (1991)

事項 教官の研究活動状況 専攻・講座・氏名 環境科学専攻地域環境科学大講座 露崎史朗

助手 露崎 史朗

 植物をとりまく環境は時間の流れ(地史的時間・年・季節・日等)によって大きく変化する。花粉・種子の段階を除くと移動性をほとんど有していない植物にとって環境は常に最適なものではなく物理的・化学的環境ストレスに曝されていることの方がむしろ多い。したがって、今日まで繁栄を遂げられた植物における環境適応能力には目を見張るものがあるのも当然のことともいえる。さらに、近年世界的規模でみられる環境保護運動の盛り上がりに映し出されているように、生態系の人為的な変化は予測の域をはるかに越えたものと成りつつある。しかしながら、我々がこれらの植物の環境適応様式に関して得ている情報は余りにも乏しい。このような状況下において植物の適応進化の機構を解明することは我々植物生態学者の責務であるようにも思える。
 私は、北海道大学低温科学時代から1990年 7月に当研究科環境科学専攻地域環境科学大講座に助手として赴任するまで、撹乱地における植生動態に関する研究を主として行ってきた。特に、火山噴火後の植生動態・スキー場造成斜面における植生動態の研究を継続して行っている。この間、中国の湿原における植生構造の解析を行った。現在、この他にツバキ・ヤツデ等の常緑広葉植物のフェノロジー(季節性)の研究を開始したところである。
 ここでは、有珠山噴火後の植生回復動態に関する研究成果について簡単に触れたい。1977-78年にかけて噴火した北海道南部に位置する有珠山(標高727m)山頂域の植生は数mの厚さに達する火山灰・軽石の堆積によってほぼ壊滅状態となった。その回復状況は以下の通りである。植物供給起源は、栄養繁殖・種子散布・人工播種・埋土種子の4つからなる(Tsuyuzaki, 1987 Vegetatio)。埋土種子は旧表土中に噴火後10年を経てもなお2,000/?が生存していた(Tsuyuzaki, 1989 Botanical Magazine, Tokyo)。 また、埋土種子は上部を覆っている火山灰がより厚く堆積しているところほど生存率が高かった(文献 1)。木本植物は種子散布、一年生草本は埋土種子、多年生草本は栄養繁殖から多くが供給され、供給起源が遷移初期層を規定しているために多年生草本・一年生草本が優占するステージがみられた(文献 2)。実生は豊富に出現しているが、土壌移動のためその生存率は15%に過ぎず、土壌移動の大きな環境下では根系を垂直方向に発達させる多年生植物が旧表土中の栄養分を利用可能であり定着上有利である(Tsuyuzaki, American Journal of Botany, 1989)。これらの結果、有珠山山頂域の植生はしばらくの間大型多年生草本の優占する段階が継続するものと考えられた。これらの知見は、広く多くの火山遷移にも応用が可能と思われ今後いくつかの火山遷移の比較研究を行うつもりである。これらの火山植生動態の研究を通して、様々な環境下で営まれている植物の生きざまを少しでも明らかにできることを期待しつつ調査研究を続けている。

論文(1990-1991年)[省略] (欧文, 和文)

所属学協会: 日本生態学会、日本植物学会、日本環境学会、日本自然保護協会、アメリカ植物学会。

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参考 (リンク) これが大事
アカデミック・ハラスメントをなくすネットワーク NPO
学生の人権
大学院教育 その恐るべき実態 -私の体験談- アカハラ当事者(被害者)によるページ
大学の教員等の任期に関する法律 (任期法)というのが1997年6月13日に公布されている !!!
日本科学者会議 期限付き助手(教官)問題についてはココ (長崎支部のページによく出ている)
Academia e-Network Project 独立行政法人化・任期付教員問題等、様々な問題を扱う (旧 国公立大学通信)

 話は、若干異なるが、合州国コロンビア大学のバイオスフェア2 (Biosphere 2)が突然解体になり、職員はまったくの予告なしに解雇となった。すごいのは、忽然とhttp://www.columbia.edu/cu/biosphere2/のページは地球上から消えたこと(何がBiosphereなんじゃ)。記事については、Columbia to cut ties to Biosphere 2を参照。

 こんなことが、日本でもこれから起こりうるのだろう。法人化なんて、暴君を作り出しやすい環境が形成されるだけだし(前いたとこは、皆の意見を聞くふりしながらの専制国家だったが)。

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