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[教育原理, 教育史, 社会環境教育論]
[超番外: 高等中学校・旧制高校における自治制に関する歴史的考察]
2つの体系(分離体系の原理) vs 選抜(教育的段階の原理) vs 1つの体系(単一体系の原理)
日本の旧中等教育制度近代教育制度の成立: 学制(1872)近代教育制度の確立: 学校令(1886) - 初代文相 森 有礼 [勅令 - 教育の勅令主義] 中等教育令の改正・制定(1899) 中学校令改正(1899)
第1条 中学校男子ニ須要ナル高等普通教育ヲ為スヲ以テ目的トス → 単位型/複得型 第2条 中学校ニ於テハ男子ニ高等女学校ニ於テハ女子ニ高等普通教育ヲ施シ実業学校ニ於テハ実業教育ヲ施スモノトス 戦前の学校系統図青年学校(1935) 正規の学校ではない。現在の大学・短大・専門学校と同じ位の年の人が通っていた。青年学校は実業補修学校(小学校卒業後、もう少し勉強したい者が通う)と青年訓練所(男子軍事教練の授業のために将校が配属された)が合併(1935)したもの。戦後の中等教育改革戦後教育改革: 戦後中等教育改革、戦後教育改革(1945-1947)、教育基本法・学校教育法制定(1947)教育勅語体制の否定と憲法、教育基本法体制の創出 戦後教育体制の特徴
義務としての教育 ⇔ 権利としての教育 意味: 義務化の三年延長。初等教育だけでなく中等教育も国民には必要がある 中等教育 前期3年 = 新制中学校 → 義務化 + 後期3年: 新制高等学校 → 方向として希望者全入 国民学校令: 新制中学校 = 学校教育法 第35条 |
新制高等学校1948年4月発足(目的) 学校教育法第41条 ① 中学校の上に連続 ② 心身発達に応じた教育(心理学的) ③ 高等普通教育及び(以前は又はであった)専門教育を施す 2元化を1元化する(両方の教育を施す)。しかし、職業高校の概念はまだ残っている 新しい型の中等学校① 希望者は高校全員入学
1948.3 文部省通達「希望者全入望ましいが努力目標」 大衆化(米国ハイスクールがモデル) 新しい型を伸ばして行くための具体的措置総合制カリキュラム
→ 1つの学校が普通教育学科と専門学科を持つのではない。入学時に定められているのでもなく高校3年間に希望・進路から自由に選択する方式を持つ。しかし、
小学区制: 3つの通学区域のうち小学区制を取るようになった |
教育課程(1950-)教育目的によって文化諸領域から選択・整理した教材区分と学習段階に応じたその配列であり、授業を始め指導の時間配当を含めた教育計画現在法規上の教育課程 学校教育法施行規則: 文部省令として公示される 小学校・中学校・高校(「道徳」が抜ける)、特殊教育 学習指導容量の基準性を巡る問題(1958-)基準性: どの程度法的拘束性を持つのか1958-1975に裁判で争われた1) 学習指導要領は法的拘束力を持つ 2) 学習指導要領は指導助言文書(1947年試案として提出。米国 "course of study" に倣う。その後「試案」が取れた) 1) の根拠: 第25条54-2等
第20条、38条43, 73
文部大臣を始め教育行政は諸条件の整備確立を目指し内容充実を目差すものではない。大綱的基準を定めることはよいが。例: 編成領域、基準 教育課程の問題① 2領域: 教科 + 教科外活動② 学習指導要領の基準性の問題
小学校(総則)、中学校、高校
内的事項に関してもある程度基準になりうることを示した
・学校制度基準説-教科構成・単位数などを含む |
高校教育課程学校教育法第41条: 出発当初の目的 - 方針が刻々変わる(大きく5回変化)
告示年度をもって指導要領の年度とする
1951年版 高校学習指導要領
1955年版 高校学習指導要領 第41条の批判が生まれてきた-政令改正諮問委員会「教育制度に関する答申(1951)」-6-3制は画一的で社会要請に応えず、柔軟に見直すべきであるという答申。職業教育を重視すべきとの意見もあり、これに伴いできたのが高専 高校に関する提案-「総合制」の見直し 3. 第三期(1963-1972)1960年版 高校学習指導要領
「能力」(この年版で初めて登場。これまでは「個性」と呼んでいた) ? 適性に対応するため |
= 国民的教養 ① 内容 ② 方法 教育の本質・目的・機能(教育とは何か、教育は何のために)
昔の教育観: 教育する者からされる者への一方的な流れ 日本の教育の現実肯定的評価は少ない: 教育の普及率・学習内容の水準・学級教育の安定性・教育施設・機器の充実等否定的評価は問題性を持つ
教育の荒廃・危機、低学力・学習内容(教科書等)、教育の物的条件 退学・停学・訓告: 退学は義務教育にはない。停学は学校教育法法第26条で市町村教育委員の基で出席停止が出来る。その他、もぐりで自宅謹慎・家庭学習・学外研修等が校長により示されることもある 問題行動生徒指導の範疇にある(3領域を含めて行うべき)教育課程: 学習指導: 教科指導 + 生活指導: 教科外の活動 教育課程の領域について: 1947 教科 → 1951 教科と特別教育活動 特別教育活動: 児童・生徒の自発的で自活的な活動を通しての自主的な生活態度を養う 1958 各教科・道徳・特別教育活動・学校行事(4領域)1968 各教科・道徳・特別活動(3領域)
特別活動: 望ましい集団活動を通してより良い生活態度を養う ex. 高校: 各教科・特別活動(2領域) |
反社会的問題行動非行(少年法第3条)
1. 犯罪行為(14-20歳未満)
原因:
① 幼児期の社会経験の不足
1. 校内: 生徒指導体制の強化、一貫した指導
1978: 学習指導要領改訂 → 1982: 実施
① 各教科科目の適切な選択(援助) 2. 人間関係に関わる 集団活動 = 生徒会活動・ホームルーム・学校行事等、友人関係、対教師、対家族 3. 青年期 青年期特有の発達課題-自己同一性の獲得 |
= 教育についての基礎的考察
人間とは何か
教育的存在としての人間教育の必要性① 文化と教育 ② 発達と教育 |
生存に不可欠な生活情報
1) 遺伝情報 2) 学習情報: 経験的なもの 3) 文化情報: 社会的なもの 経験(ピアジュによる)
1. 物理的経験 → 実物教育 与えられた文化そのものの検討遺伝情報の進化、文化情報の進化 → アンバランス教育の可能性1. 社会的要求2. 学習の傾向 → 教育は学習を意識的に方向付ける |
教育史を見ながら、具体的な制度・教育思想の変遷を知る レイン: +(正)の確認 = 賞 ⇔ -(負)の確認 = 罰 ジュリー: 自分を確認されたい → 負の確認を与えられる → 狂人 何でも親の言う通り = いつも受動的 B.F. → 初めて反抗 → お前は気違いだと負の確認 二重の拘束初期の学習 → 現在の行動に及ぶ負の確認に従う → 非行 発達する = 内外の世界が広がる → 対処する力が必要 教育= 社会化と個性化
方法 |
教育意識ボナー: 従来文化を巡る研究状況中で動物・人間学習については進んでいるが、教授法はあまり進んでいない学習行動が先: ものを教える(教授) - 後になってから文化が進むと自分による学習が進んで行き教授となる 教授の初期のもの → 例示
見習い: 模倣をその人の行動の基本にする(模倣+練習) 教育: 心的共有を持つ → 教育の意識がどのように生まれて来たか。学校がどのように出来て来たか |
原始社会 → 教え伝えるものがある程度蓄積され集団中で伝えていただろう 原始社会の教育の社会的機能: 人間の社会的な要素となるもの = (1) 教育 + (2) 訓練
生産に関わる技術・知識
能力・人格についての考え方が発達してくる ex. 人格の範型 ? 物語によって英雄の形成を語る 個性観も出てくる → 教育を特別視するようになる → 教育意識の発達 吟遊詩人や親が語る = 叙事詩 → このような中で教育意識が発達して如何に学校が生まれて来たのか 学校文字体系成立と関連国家成立が前提となる = 文化的なものの記録の必要性 |
オリエント: 神政政治 水の管理・耕地の開拓 王政の役割を補佐する神官と官僚が重要性を持つ → 書記 書記の役割
その他土木工事に関するもの。軍事に関する知識
楔形文字・絵文字: 数が多く難しい → 書記の文字の独占 バビロニア・古代オリエントの教育特性書記養成王侯や貴族の教育文献 → 見当たらない 民衆 → 伝達によるものであったろう
文字という学習をそれを屈指する訓練は計画的意図的に行われなくてはならない 学校とは何か歴史的に考察されねばならない(デュルケム)変わらない側面とそうではない側面がある
意図的: 社会的必要に応じて |
最古: 西欧の学校(school)と比較 = 原形ギリシャ学校 現代との相違点・共通点 → 両方ある 書記養成が関与する (BC3000頃から記述が見られる) 教科書・教室・生徒の書いたノート・椅子 (BC2500頃には全てあるだろう) ノート: バビロニアでは粘土版(素焼きの瓶が教室の隅にある) 椅子: ヨーロッパでは比較的新しい。それまでは座椅子 バビロニア: 粘土性長椅子 + 教師が自宅改築 + 助教がいた 伝統重んじる個別教授(= 専門化): 地理・医学・数学・法則等の教授 |
→ 書記養成: 自分に必要な知識を獲得する-特定の知識の伝授(個別主義が原則) → 書記(という職人を)養成するという機能 有徳と有能について分けて考えられていた(融合が大切) 正しく書くことの重要さ、訳語 → 学校形態も求めていた → カリキュラム様なものを持つ: 助教の役割 → オリエントの学校は宗教的色合いが濃いと言われていた(神話等から)
⇔ 決して教育内容は限定されていない |
古代中国における学校とは (文献では殷頃から見られる)
殷代学校の起源1) 学: 旧字の冠は両手を表わす(共) ワは家屋を表わす 2) 庠: 厂は付属の家屋を表わす 羊(犠牲のもの)が付属の家屋の中にいる 3) 序: 機織りに関係する 广: 付設の家屋 → 生産・宗教等と未分化な状態で教育が行われていたろう → 次第に軍事と関わるものになってくる 師: 丘の手前の旗 → 軍事の指揮者 軍事の方法占い 出陣時期などを学校のようなもので教える 周代社会が落ち着く 封建支配 以下学は旧字として見る1) 学 + 教(仮説) 教: 装置に子供 → 農耕
鞭を差す-仕事を鞭でやらせる 3) 学の中で教えられるのが主として文字 → 識字・礼儀作法等を教え始める ⇔ 古代オリエントでも鞭を使った
皇子や貴族の子を鞭で打つべきでない-卑屈になる
校: 木+交: 木で柵を作る
家塾 = 民間, 庠 = とう里, 序 = 国(周): これらは地方教育機関 教育課程にこのようなものがあったと考えられている |
「大学」修身斉家治国平天下が教育目標のようなもの 春秋時代諸子百家孔子「人間形成に関わる教育をどのように考えていたか」
修身治国: 教育というものによって人間が作られる → 教育の可能性を重視
父子-親/朋友-信/君臣-義/長幼-序/夫婦-別: これらを育てていくのが教育 |
自由教育 例: アテネ 様々な概念規定がある 例: 日本近代: 子供の自立性の重視。国家主義的教育との対立概念。画一的教育に対する個別の学習。強制的教育に対する対立概念 ↓ オリエントの教育に対比 ⇔ 教育とは何か 具体的に教育を考えていた(Greek) → 人間形成 古代ギリシアの複雑な性格J.P.ベルナン: 色々なレベル・要素がある。ギリシア世界は連帯と排除の関係
主体: 個人のカテゴリー ⇔ 普通の教方はポリスの中で個人を重視していない
悲劇に準えて説明 古代ギリシアの教育前段階 (古典期の教育)ミュケナ文明(貢納王政): 専門的書記いない → 役人が仕事をし記録 (文書: 何らかの教育的機関あったらしい) ホメロスの時代
ベニキア表音文字(アルファベット)が使われる → 詩・文学・記録の誕生 貴族制 → 民主制 ↓ 教育 = 戦士養成・個人教育 ↓ 学校
BC 6 c末: ギリシア全都市に学校が普及。貴族的 → 大衆的 = ポリスへの忠誠心(国制の特殊性) = 先住民族を征服し国家を建設 市民 → 軍隊 → 王-長老会-監督役 ペリオイコイ → 軍役 ヘイワータイ → 市民 常にペリオイコイ・ヘイロータイを監視・支配 隷属農教育原理: 徹底した国家主義、(軍)集団主義 → 厳しい育て方-教育 = 訓練 男子教育: 等質的市民団成員・克己的訓練
齢___6-7歳から___________12-14歳__20-30歳__30歳- 軍事的訓練 読み書き 音楽 教育監督官 命令-服従 教化 罰・答 反覆練習: 模範と模倣 非常に厳しい訓練 → 動きの少ない伝統ある場なら適している 数々の戦争 → 社会変動が激しい → 彼等が対応して行くことが困難化 アテネの教育 社会的変化植民地がBC 8 c頃から出来はじめる 人口増大 + ペルシャや他のポリスとの戦争 貴族層没落 → 商工業を中心とした市民層の台頭 BC6C末: クレイステネスの改革 → アテネ市民が政治的権利を平等に持つ
_____評議会 民主政治の担い手 奴隷制の発展 アテネ市民が奴隷に頼る
従来あった彼等の精神に変化起る(ソクラテスの頃は手の業を重視) 学ぶ 実用的な目的 < 一般教養
自由人に相応しい教育(自由教育) |
教育の対比: 国家主義的 ⇔ 私的教育, 強制教育 ⇔ 自由教育, 集団教育 ⇔ 個人教育 アテネの場合: スパルタのような緊張感が少ない。商工業が発達
ヘラクレイトス: スパルタ → 全てを教えない プラトリア(絶縁集団)の入社式: アパテューリア祭(子供の日) → プラトリアに入る資格があるか 女子の場合: 学校へ行かなかっただろう 男子の場合
6, 7歳までに学校に行った
音楽教師 - 情操の面
どこで行われたか = 公共施設: 競技場(スタディオン)、練習場(ギムナシオン)、体育場(パライストラ)
初頭 → 自分の家に集める、街角で教える
14-16歳 ギムナシオンに通う
軍事訓練 身体訓練 プロタゴラス: 神が人間を作った時理性は与えたが共同体の運営の能力は与えられなかった 「アイドス」つつしみ、畏敬、恥じを知る心等、他者から与えられるもの → 後から(後天的に)与えられるもの → 教育・訓練による ギリシアの伝統を継承していくのだろう 「徳」の内容: 勇気に意味合いを置く(原始的社会) → 卓越性 → 正義
ホメロスの時代に既にこの観念を重視する状態にあった 年齢に応じた徳、身分に応じた徳がある ソクラテス: 徳を性・年齢・身分で分けるべきでない人間性に基づいた徳でなければならない 共同的なものが大切(ポリス社会崩壊の中で) 人間としての徳 → 善についての知恵(善悪) → 自己の内部にあるロゴスで行為として出てくる 自発的道徳・普遍的道徳 与えるのではなく自己の内部より引き出す → 問合法 プラトン: 国家による教育「国家」「法律」 如何にして国家の政治を担う者を養成すべきか → 教育について: 教育用の教科書を作るべき 初等教育 = 万民就学 < 予備門 < 上級コース 選択の基準 = 能力 ↓ 幾何・算術・天文・音楽+自然科学[哲学に至る前段階の一般教養] 哲学(弁論) 実践 アカディミア BC387-8 アテナイ郊外プラトン初めての教育の場
初等: 教育施設有 アカディミアの性格
複合的性格: 書物の保存+文化センター的+大学+ … +等 書物より生きた言葉を重視 - 現実には文字も重視 cf. イソクラテス - 伝授の重視 • 学問の自由の重視 当時の高等教育は学問の自由を軽視した
Ex. イソクラテス: 弁論術の重視、学理を教える。ピタゴラス: 弟子に 秘伝の形で伝えて行く その後のギリシア教育の行方ポリスの崩壊 → マケドニアのアレキサンドル大王 <ヘレニズム期教育>地域的教育 → 普遍的(ポリスの枠が壊される) ギリシアの教育 → ローマ(従来の受け取り方) マレーによると古代教育において完成されたものはヘレニズム期教育 |
民俗的identityを持って広がって行く(by エリプソン) 文化的にはギリシア人は統一性を有していたいという願望があった 地域的に離れていても同じ教育を持たせる → 学校へ通うことの重視 → 就学率高まる → 初等教育だけでは足りない → 中等教育の重視 統一された言葉 中等教育: ギュムナシオンで(国家レベル)行われるが足りない → 私的学校の発達 青年訓練(従来18-20歳位)-戦士となるため → ヘレニズム期: 軍事教育の必要がなくなる → 日常必要な知識・社会生活に必要なもの → 文学教育 + 科学教育(幾何・算数・天文学・音楽などの一般原理) + 体育 = 即ち一般教養 |
高等教育(一般の人々は初中等まで) 極小数の人(ジルボーグ) • 高等な一般教養 • 学者による専門的教育 • ムセイオン(博物館 + 図書館 + 植物館 + 高等教育等): アレキサンドリア、ガパドキア等にできる • 哲学・弁論術 哲学: 一般の人達を対象としたものと専門的なものの2種 / 弁論術: 伝授、レトリック、暗示 公開講義専門研究 古典的テキスト、自分の学説の紹介 |
初期: ギリシア(家庭教育がルーズ)とはかなり異なる
家庭教育の重視 後期(帝政期): 中等教育以上が大きく変化 → 学校体系確立 ギリシア: 中等教育、一般教養の重視 徳-創造性(全体性) / 一般人が必要とする諸知識 / 単位 ローマ: 一般教養の重視
キケロ(中-後期) パイディアの概念をローマに取り入れる |
人間尊厳、人間的共感 → 現代知識: 外的世界の拡大-自分や他者の手段となる
何のための手段となるか(手段選択の主体)
社会的結合-連帯性の形成 クインティアヌス 皇帝から勅任を受けた勅任教授
競争システムの導入 |
古代教育: メソポタミア・エジプトの対比
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古代= 分散的教育(専科性) → 中世=集中的教育(→ 現代へ)中世教育の特徴: キリスト教教育(神のもとの人間) → 言葉の重視 → 文法・論理学 中世社会の特徴土地(荘園・村落共同体)を中心とした農業中心の社会商業活動はほそぼそと続いている → 中期発展 古代に比べてつつましい人々の生活 → 現世よりも来世(キリスト教への傾倒) ⇒ 経済社会 政治・社会的封建性: 土地を媒介にして保護する者とされる者(主従関係)身分制社会 → 教育に与えた影響大 → 特に聖職層 宗教: ローマカトリック教会 → 聖俗二元主義 → 教育に与えた影響大 文化的ラテン語を共通語とする中世社会の成立(ラテン的要素) + キリスト教文化 → 教育学校: 身分制に分立した体系(→ 結構流動性が激しい) 中世社会の特徴学校: 身分制に分立した体系(→ 結構流動性が激しい)前期 __ 教会・修道院付属体系(聖職者養成) 実際は様々な身分の者がなれる(open) 領主を対象にしたもの → 宮廷で必要なこと: 騎士養成 後期 __ 教会学校 → 大学(聖職者養成のみではない)
都市住民層の教育機関が出来てくる
古代においては基本的には宗教と教育は無関係 (中世教会・学校関係の反省から生まれた)
教会が教育監督権を持つ
これら3つの潮流を吸収した 初期中世カール大帝の前のメロビン朝の国家組織 - ローマ的要素を残している。都市学校から人材を登用するカロリング朝: 宗教学校からカロリング朝に登用する アルフィン 教区学校: 聖職者養成(職業学校) - 初等教育機関ではない 典礼 - 司祭が1人1つの学校を持っていないといけなかった |
付属学校: 司教座聖堂に付属して学校が作られる 1) 論理学: 異端に対する闘う道具, 2) 修辞学: 説教の方法, 3) 文法: 聖書・聖典に欠かせない道具(ドナトウス・グリスキアヌス) 四科: 幾何・算術・天文学・音楽(事物・自然に関する学科) 1) 幾何, 2) 算術(= 暦), 3) 天文学(= 占星術, 時間測定・吉凶占い), 4) 音楽: 聖歌隊使用がベース エリートは7科の他に神学を習う
僧会学校: エリート聖職者養成
→ ヨーロッパ修道院の特徴: ヨーロッパ活動重視 後期中世都市住民層の教育聖職者養成の変化 - 大学・学寮(中等教育)の誕生
中世都市誕生 農村の変化 → 市(いち)の成立 + 手工業 → 商業都市: 教会・領主の周辺、川の縁等に発達 自治権を獲得: 完全自治都市 - ハンザ、一部自治都市 (国王より認められた) 教育内容変化 = 世俗的 Ex. 普段の自分達の使っている言葉
文章主義(13 c) ラテン語 → 俗用語、商業用算数 外からの文化的ショック-十字軍・外からの商業活動
主としてビザンツ・イスラム文化の受容 = 広い世界を知り異教の人々の考え方を知る |
イタリア古代ローマの教育形式 (ビフラーン、清水)初歩的読み書き学校: 計算 - 修辞・文法 - 法律 - 商業 - 医学 等 教会学校と併存の形で栄えて行く 書記 西部北部ヨーロッパ (フランス等)古代的学校の遺産の継承性は不明 例: 教会学校形式を受け継いでいるか? 世俗教育(目的が異なる)12-13 cになると読み書き、計算、書記養成等の学校が出来たと思われる 都市住民層の分化 - 教育にも区別 富裕階級: 文化的にもエリートになろうとする → 自由人としての教養 → 労働から離れた教養 元老院学校 → ラテン語学校 下層階級: 読み方学校、書き方学校 F.アリエス「<子供>の誕生」みすず書房17 cまでは(現在我々が考えるような)初等学校はなかったと思われる 小さい学校: 16-17 cにかけて表れたと思われる 14 c: (ラテン語学校): ブルジョア上層学校というより実用面が強かった 学校は小規模(教師1-2人)-1人で様々なことを教授。祈り・計算・基礎的文法等 16-17 c: ラテン語学校が小さな学校に吸収されて行く 小さい学校の起源 1. ラテン語学校: 読み方(文芸・聖書等)・文法, 2. 家庭教育: 礼儀・作法, 3. 職人教育: 書き方(書記として)、印刷術 職人教育: 同業組合で行われた
相互扶助 17 c: 子供を対象(年齢別): それまでは年齢・男女・貴賎を問わなかった 18 c: 階層別
上層 - 学寮に / 下層 - 小さな学校(慈善学校、私塾) |
世俗の学校
1. 授業料をとる通学制, 2. 教育権 → 教会当局, 3. 実用主義, 4. 施設: 教育への補助金、教師の採用-給料, 4’. 公教育の原型: 自主的・世俗的・公開的・公共的 大学の誕生: 教師
信仰の強化のため 普遍論争ロベール: 教会やパリで資格を持たずに教師をやる
教育の方法: 相異なる命題を照らし合わせてどちらが論理的に正しいか論じた
子供に対して肯定的でないというそれまでの考えに対して彼は潜在的に子供が持っている肯定的な能力を引き出すことが教育の役割と考えた → 一般概念を教えて行く → 経験的にものを知ることの重視(当時としては珍しい発想)、自然・技芸 ロジャーベーコン: 実験・観察の採用ウイリアム=オッカム: 理性と信仰を分けて考える → これらの動きの中で大学が生まれてくる |
本来、全人が学という意味合い(= 世俗的に学ぶ)。古代アルカメディアとも近代collegeとも違う中世独特のもの
何故生まれたか(大学の誕生を準備するもの)
成立過程ポローニャ大学(イタリア): 世界最古: 公証人学校
様々な地方から人(教師も学生も)を呼ぶ あちこちの教会付属の学校に多くの外国人が集まり教会に収容しきれなくなる。その結果、教会の回りに許可を与えて学校を開く(教授免許権)-この権利を巡って対決
裁判権: 国王から教会 → 教皇 これら自然発生的大学のほかに、教皇や皇帝が意図的に大学を創設することもあり大学は増えていった 大学組織: 学部Case. パリ大自由学芸部: 必ずこれを経過しないと次に行けない文法・修辞・論理・数学・幾何・音楽・自然科学等 → 法学部・医学部・神学部 同郷会資格・称号(古代には見られなかった) 試験制度の整備 → フランスのバカロレアはこのころ出来る: 受かると親方候補となる
学士になる資格得る(教会の任命権のなごり) 中世の学校: 1) 段階性のあるプログラムがない。2) 難易度バラバラ(個人の必要性に応じて)。3) 異年齢集団(個人の必要性に応じて)。4) 学年(+ 学級)なし
→ ところが14世紀に入って試験が整備されてくると基準が出来てくる
年齢別 → 学寮 管理: 学頭 - 民主的(下からの選挙)
財産 - 対外との交渉 |
但し近代大学自治のような学問の自由ということではない Case. 近世= ルネッサンスと宗教改革のころの教育 - 近代との接点大学-論議と討論中心 15-16c: 王権強化-大学の自治を取り上げようとする働き 16c: 大学の規則を国が作る(大学は国王の娘) 従来にない強固な学校組織を持つ。大学は国際的・社会的多様性あり。世俗的要素と聖的要素混在 近世の大きな動き
明確な教育組織を持って教育。専門学校も増える(王権強化のため)
自由の雰囲気があり、抑圧的なものはない
厳しい規律が作られる = 体罰の導入(ルネッサンス教育批判の対象) → 様々な教育論が生まれる
学級組織変革に熱心だったのがプロテスタント(後カトリックも取組)
↓ しかし! |
1) イタリアここがスタートの地であり内容的にも高度 ベルジュリーオグリアーノ・ベローナ → 教育実践を行った ビットリーノ・タ・クエトル
ベローナ市には教育学校(寄宿学校)を作った → 北部・西部ヨーロッパに広がる
子供の個別性・年齢段階に見合った教育 + 遊びを通しての学習 2) フランスラブレー: 百科全書家 「人間は自然の一部」
理性と共に感情も重要-汝の欲する所を行え → そのようにして自己規律を作って行く モンテーニュ
文芸的知識、書物はあてにならない → むしろ、小さい頃から様々な事を習慣化させることが重要 3) ギリシアエラスムス4) イギリストマス・モア、ジャン・ルイス、ウイーベスReview. ルネッサンス期の教育エラスムスの考え方 - 言語教育の重視デュルケム・エラスムス主義: 幾つかの変化を経て浸透
コレージュ(寄宿制度) = 学寮: 1. 現実世界への不信感 → 隔離。2. 子供の内発に対する不信感
人間の身体性 近世の中等教育は実用的なものより人間教育は重視されていたエラスムス的理解 - 人文主義・言語主義知識と教育の新たな関係: 社会科学・自然科学等 = 外の世界の支配道具 → 人間形成においてこれらの知識が役に立つ コレージュの中では理想的人間像を教える。修辞学復活。作文を書かせる 近代に入り実学が拒否される(18 cに入ってから実学を取入れようとする動き) 競争の教育(グループ同志で) → 賞・罰・名誉・不名誉 規律の重視 → 快適生活の保障 → これらが教育理論で完成しまた批判する Ex. コメニウス(1592-1670, 17 cに活躍)
ボヘミアの聖職者+教師(哲学者)「大教授学」(1632 or 39) 1657ラテン語版 |
→ 近代教育の出発点 30年戦争: 聖職者や哲学者もチェコ民族解放運動と関わる → ヨーロッパ全体の回復(彼の教育問題とも関わる) ヨーロッパの平和が何故回復されないのか → 民衆の無知が根本的問題と考える(トマス「カンパネラ」、ルネッサンス末期) → 一人一人への教育の重要性 ↓ 学識(=学習)・徳性(=行動)・敬神(=祈り) 学識は本来人間の中に種子という形で内存している(可能性) = 現実性を持たせるために教育が必要 彼の人間観と関わる(目的は来世、来世の準備として現世が大切) 人間は人間になっていくことにより始めて人間である-人間: 形成的存在・教育的存在 → どのような人間にも教育が必要 → 人間社会は教育社会である(近代的色彩が強い) 教育 権利としての教育 = 教育の機会均等 → この2つに通じる教育法を提起した 「大教授学」本来のテーマ: あらゆる人に全ての事柄を教える普遍的技法を述べる。(能力・知能の自然的差異は認めていたが、可能性の存在として人間を認めていた)。当時の教育は、学校の数が少ない、修学期間が一定しない、教える内容が区々などのため、必ずしも全ての人が教育を受けていたわけではなかった。 知能と自然的調和の過不足(前近代的)知能が弱いもの → 多くの教育が必要 → 公正の原則(配分主義) 公正の原則-社会的・経済的付近等をなくする 機会均等: 近代教育思想の初期においては公正の原則が非常に重視されていた。(ex. ロック、ベンsム) → 実際に公教育の中では公利的観点から機会均等が認められていた 総ての事柄を 人文主義教育 + 実学主義教育 母国語・地理・歴史等学校教育 - 職人養成・人間形成 普遍的技法を どのような人にも分かる(通用する)教育方法 どのような教育にも通用する教育方法 + どのような教師でも通用する教育方法 形成的自然(人間): 発達する存在、教育という外力の必要性(成熟説) = 生得説に反するものとしての経験説 ビアジェの指摘: 能動性の重視 = 学習に関わる知育 → 外的な行動 ⇔ 内的な行動 - 推論・思考 道徳教育も能動性問われる(外的強制では道徳は学べない) → 集団(生徒間・教師-生徒)中で身に付ける 実例 + 書物 → 模倣: 集団的遊戯の重視 → 規律を身に付ける → 近現代的教育: フランス、ホベ 発達段階論能力・年齢重視: 幼年期・少年期・思春期・青年期学校制度は生涯教育の一部を担当するもの 教育は本来は両親の仕事である → 教育権は親が持つ (教育をする権利・受ける権利) → 権利としての教育・教育の自由に関する考察契機 親-暇が無い・学識を教えることは出来ない → 学校の必要性(学校分業論) 親の教育権の一部(知育)を任せる 集団の優越性 私教育を認める-教育の自由.。公教育も認める 学級・学年・教科課程・時間割・教科書 教授の原則
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教会との対立の中で王権が自ら教育を行うようになる 近代市民革命 → 新たな教育(生まれなかった?) 教育学子供の見方が変わる = 教育過程そのものが変わる教えるもの → 学ぶもの、反応選択の自由(従来の強制教育では考慮されない) 教化と教育は異なる(教化に学習意欲は関係ない) 教育制度構築公教育制度の重視: 多目的 → 時代によって内容は異なるヘレニズム = 共同体的なもの / ギリシア = 市民団 / 中世 = 臣民として王に従う 19 c後半 国民教育制度 公教育制度 (多義的)
国民の義務としての教育 近代教育原則について1. 権利としての教育
Ex. 中世: 王が教育権を握る(国民 - 義務)、教会 → 受刑教育 |
子供の独自性 → 子供の権利に繋がる
男女共学: 両性の共同・協力学習 権利としての教育を保障するための内的条件保障
教育の自由の原則 成長中の世代の教育。成人の教育(現在でいう生涯教育) 3. 教育内容: 人間と市民と職業人の養成 = 人文教育 + 科学教育4. 方法: 成長段階を考慮に入れる(自発性・直感・段階) 第三階級はこれらを取り入れ教育を行う: 民衆強化のため → 全てのものに教育を! - 民衆の間から発生 コンドルセ(19c): 教育よりも(フランス)市民革命に活躍した人。本来自然科学者、ジロンド派
権利としての教育 権利の認識と行使 + 義務の理解と履行 彼は自然的不平等については認めている
個人の福祉(個人個人が協力し自然的不平等を減少させる) 公教育構想者として知られる ⇔ ルペルチェ: コンドルセ案の後に
教育の自由・権利の教育に重きを置かない → 平等主義を重視 |
グローバル化に向けた授業展開 - 国際化とは何か -大学教室におけるコミュニケーションのフレームワーク•語彙 (一般用語・専門用語) •文法 •発音 •スタイル •社会的側面・自信 フレームワークが大切な理由
•手間をかける → 自信ができる •学力低下 •学生数減少 •教員数削減 •改革・広報業務の追加•研究費削減 •社会の大きな期待とその急速な変化 •政府の財政危機 教育改革のモデル
↓ •PDCAサイクル •外部評価 •エビデンスベース •質の管理
因果は巡る 日本を越える製品管理 PDCAサイクル: デミングホイール
国際化の意味
教育の基本大学教育活動は「目標」「方略」「評価」により成立し、その中心に学生がいるシラバス作成が教育の基本
シラバス作成授業設計のフォーマット - シラバスの構造目標 一般目標 (科目の理念、概念的目標) 行動目標 (到達目標) 授業内容 (順序と内容・資源・方略) 1 ……. 2 ……. 3 …… … …… 評価 (評価基準、補方、割合) Ex. 出席30%、筆記試験30%、討論参加20%、レポート 20% 学習目標1. 目標設定の意義
2. 一般目標と行動目標シラバスでは、学習目標を次の二段階に分け表現:
3. 学習目標の持つべき性格教育目標は 現実的 理解可能 測定可能 行動的 達成可能 …であること
一般目標 〇 〇 〇 4. 学習目標の三領域と到達レベル学習目標の設定は、三領域を意識し行う:(英語はここ) 認知領域 情意領域 精神運動領域 知識 態度・習慣 技能 浅い 想起 受け入れ 模倣 ↑↓ 解釈 反応 コントロール 深い 問題解決 内面化 自動化 人間性高める 考えなくてもできる 5. 学習目標記述の二原則
6. 一般目標記述
7. 行動目標記述一般目標達成するために、具体的目標を示す
• 学習者を主語として書く • 一般目標と関連させる |
8. 三領域で使われる動詞参考: シラバスフォーマット 認知領域
情意領域: 行う 尋ねる 助ける コミュニケートする 寄与する 協調する 示す 見せる 表現する 始める 相互に作用する 系統立てる 参加する 反応する 応える 精神運動領域: 感ずる 始める 模倣する 熟練する 工夫する 実施する 行う 創造する 操作する 動かす 調べる 準備する 測定する 方略の設計
ずっと話している … → 実演があるとほっと一息 グループ討論
成績評価
論述試験 (ペーパーテスト) 口頭試験 客観試験 Simulation test
北大全学教育にガイドライン導入
英語教室の英語について
英語について考える前に
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啓蒙: 情報の寡少な一般人に必要な知識を与え、知的水準を高めること → 社会教育、教育方法、教育内容、教育理念? 誰が、誰の、どのような迷蒙を、どのように啓いたか? |
→ 自然教育 啓蒙と「啓蒙期」 → Kantの「啓蒙」, 文化史・精神史・社会思想史 |
戦後改革期の教育思想と社会教育戦後改革期= 「啓蒙期」説日本社会教育史(「啓蒙期」説) 学説史 宮坂広作 1945-52 近代日本社会教育政策史(1966): 戦前日本の社会教育政策に関する初の本格的通史
明治維新-太平洋戦争までを時期区分し、各時期の社会教育政策・行政の歴史的素描 宮坂広作 1945-50 思想史 小川利夫 1945-50 現代社会教育思想の生成-日本社会教育思想史序説-(1977) A 社会問題としての社会教育(社会教育思想の萌芽形態) 1860年代-1900年代 (特に1907年) B 教育的デモクラシーとしての社会教育(社会教育思想の現代的生成)1907-29: 大正期の社会教育思想 C 教化としての社会教育批判(危機における社会教育思想)1930-45: 昭和ファシズム期の社会教育思想 D 権利としての社会教育(現代社会教育思想の成立と展開)1945-75: 戦後の社会教育思想 → 社会教育研究対象 = 「社会教育行政(活動)と国民の自己教育運動との矛盾」を歴史的・現実的に明らかにする実践史 福尾武彦1949-53: 人びとの学びの歴史 (1994) 啓蒙思想検討の視点基本的性格: 「理性と自由」, 反封建・反教会権力, 私的所有と自由競争 |
諸類型
先進国型と後進国型: イギリス、フランス、ドイツ(プロシャ、オーストリア) 日本「3つの啓蒙期」(小川): 自由民権、大正デモクラシー、戦後改革「弁証的啓蒙」(戸坂 潤), 社会教育 Erhebung = 啓蒙、教養(堀 秀彦) 戦後改革 = 啓蒙期説(小川) 後進国型を前提
欧米特に米国成人教育論の翻訳的紹介 Cf. citizenship, enlightened el. 近代教育原則と社会教育近代教育原則 (堀尾輝久)
成人教育論 Sur l'instruction commune pour les hommes (第3覚書)
啓蒙思想と近代教育思想の矛盾の可能性(自由と平等、自然状態と教育) |
「寺中構想」
教育の位置
| 教育 <━━━━> 学習 ━|<━> 形 2つの教育構造論争(1) 海後勝雄「資本主義の発展と教育上の諸法則」(1954)を巡って(2) 青年学級振興法(1953)と教育構造 (宇佐川)
教育 ___ 分化形式 ___ 学校教育 社会教育構造論争(1) 海後宗臣の教育基本構造 cf. Bildung, indoctorination, formation
_____教師_教材_生徒 |
(3) 宇佐川満の「社会教育の性格」
一般的性格… ┆歴史的性格…┆日本的性格…┆現代的性格 (構造論) ┆(機能論) ┆(推進 ┆(具備すべき要件) 客体 = ┆一般化 ┆ エネルギー)┆民衆性・生産生・ 生活主体 ┆特殊化 ┆政策と運動 ┆進歩性・科学性 ┆個別化 ┆ ┆(私事性・組織性・生活性) 教育構造論の意義と限界1) 構造論と機能論2) 本質論 → 発展段階論 → 構造論 → 現状分析 3) 教育構造論の諸類型
上部構造と下部構造、教育と陶治、教育主体-教育内容-学習主体 ┌──────────────┐ ┌→│ 上部構造①④ ←──────┼┐ ② ├───────┬───↑──┤│ └→│ 下部構造 │生産関係 ││ │ ├───③──┤│ │ │生産力───┼┘ └───────┴──────┘ |
= 「宮原理論」
歴史的範疇としての社会教育1) 「社会再文肢論」、形成(または原形態としての教育)と「教育」2) 社会通念 → 法概念 → 歴史的範疇 3) 近代学校制度成立後、それに対するものとして発生・発達 日本の場合 「社会教育」の概念 = 通俗教育 … 自由民権運動とその圧迫過程 社会教育政策…日露戦争後、帝国主義段階への移行期 条件 = デモクラシーとテクノロジー1) デモクラシー; 社会的民主主義の勃興(→ 法制的民主主義) 政治上の → 社会上の → 生活方法としての民主主義(J. Dewey) 2) テクノロジー=通信・交通手段 cf. 生産力、技術、交通 Verkehr 「下からの要求」と「上からの対応策」1) 政策と運動2) 「合流・混在」と「矛盾」 3) 19 c.後半の「労働問題の高揚」, 20 c.前半の「労働者階級の勢力のたかまり」 自由・平等の経済的・社会的裏付け、学習機会の均等 = 社会的民主主義? |
社会教育の発達形態1) 学校教育の補足、拡張、それ以外の教育要求 cf. 補充的、拡張的、超越的機能(平沢薫)2) 代位形態、移行形態(小川利夫) 3) 「学校教育基準の形式的3類型」(宮坂広作)、「原形態」と「以外」形態? (福尾武彦) 社会教育の再解釈1) 全成人の全面的学習: 再び原形態としての社会教育に、地域社会と公立学校 community school2) 社会を改造し、環境を改変するための教育: 戦後復興 → 経済的自立、平和と生産のための教育 3) 教育の全国的計画化の必要: 干渉を伴わぬ財政援助 cf. no support, no control 4) 教育の自由 ← 学習の自由 宮原理論の系譜とその後1) その系譜宮原誠一; 春山作樹 → J. Dewey, progressive education. Cf. 寺坂作雄; 下村湖人, etc. → P Natorp, reformpaedagogik 2) その後生産主義教育から青年の学習運動へ、権利としての教育の現実化。宮原理論の後継者たち |
1953(S28)-1999(H11) 青年学級: 勤労に従事し、又は従事しようとする青年に対し、実際生活に必要な職業又は家事に関する知識及び技能を習得させ、並びにその一般的教養を向上させることを目的として、この法律の定めるところにより市(特別区を含む)町村が開設する事業 国家による教育・学習活動への介入の明確化 |
1) 日本青年団協議会内部論争 → 共同学習論 2) 宮原誠一 vs 寺中作雄論争 (読売新聞紙上) 3) 宇佐川満・佐藤千代吉の海後宗臣への反論 (雑誌「社会教育」) → 教育構造論争 |
学習論展開の原点 |
前史1) 占領軍CIEの青少年対策IFEL, YLTCとgroup workの理論 → 青年団, etc.におけるションション活動 2) 戦後改革期の労働運動とサークル活動、農村の夜学会・青年学級、生活綴方教室3) 青年学級振興法と日青協の「共同学習運動」 第2回青協大会(1952)、勤労青年教育基本要綱(1954) 「共同学習の本質」(吉田 昇)1) 共同学習の目的
① 主体性確立 cf. 「承り学習」、身についた学習、講師=間接的指導者 ① 表面的興味から内心の要求へ Need and Interest, recreationの役割 ② 素材としての地域の問題-生活を合理化し、生産を能率化する ③ J. Deweyの「認識の5段階」 cf. Herbar派の教授段階説、単元学習 困難 → 問題の限定 → 解決の示唆 → 示唆の検討 → 検証 ④ 学習と実践-問題解決学習、実践のプロジェクト、団活動と学習 |
『農村のサークル活動』(太田 尭)1) 前史としての「たまり場」 = 生き止まりの逃避の場2) サークルの目指すもの
①義理としきたりの社会に自由を: 1人1人のもつ具体的な矛盾の自覚
①学習: おれたち中心から、発言を文字に、埋もれていた自我を掘り出す 小集団学習の停滞-誤った技術主義(千野陽一)1) 学習内容; 低俗な学習内容、問題深化の動機づけの挫折、「文化遺産」の軽視生産学習と政治学習の分離、系統学習の否定 2) 学習方法; 見せかけの平等主義、個人学習の軽視(安易な集団討議偏重)「一人の百歩より百人の一歩」の卑俗化 3) 学習組織; リーダーの軽視、公的社会教育の軽視 |
農民大学: 農民学習運動の1つ 長野県駒ヶ根: 農村運動メッカ → 信濃生産大学発足 → 農民大学[拡大] → 労農大学 (農民減少により) → 地域住民大学 → 消滅 |
共同学習論の分解1) 反封建から反独占へ2) 担い手としての中農の分解、農村青年の都市への流出 3) 共同学習論の分解(藤岡貞彦) a) 後期中等教育の確立(確井正久) → 産業教育振興法 b) 運動の指導性確立(福尾・小川) cf. 教育の論理と運動の論理 c) 地域課題の実践 → 近代社会の矛盾克服(吉田昇) cf. 反封建か反独占か 4) 新教育批判、集団主義教育をめぐって 信濃生産大学 (1960.8-1966.8)1) 生産大学がめざすもの(宮原誠一)a) 主権者として生きて行くための理論、利害、敵・味方を見分ける力 b) 働く農民の立場; 思想・言論の自由 cf. 新安保問題, etc. c) 生産学習と政治学習の統一; 技術・経営と政治・経済 → 全生活変える運動 d) 系統的・発展的学習; 実践 → 理論学習 → より高実践 → より高理論学習 2) 学習テーマ 農業共同化問題 → 地域開発と農業構造改善事業 → 農村における学習運動 3) 学習方法・学習組織 a) 学習の3重構造; サークル ⇔ セミナー ⇔ 生産大学 b) no support, (support, but?) no controlの民主的自治体(駒ヶ根市) |
c) 運営委員会(農業青年、社会教育・農業問題専門家)による学習内容編成
→ 農業近代化協議会(← 長野農山漁村文化協議会) d) 現地報告、調査学習 → 系統学習労農大学・住民大学へ1) 農民大学から労農大学へ(1967)a) 農業青年と労働青年の分化 b) 自治体の「事情」; 地区労の登場、観光開発 c) 基本テーマ「地域開発と住民」 1) 住民大学(長野 1974)、民衆大学・市民大学 ← 自由大学・庶民大学 a) 地域開発・公害問題と学習活動 Ex. 三島・沼津、志布志 b) 革新自治体と地域問題、住民運動の教育的側面・教育的意義 学習論発展の課題1) 学習内容: 生活要求と学習必要・学習要求、問題解決学習と系統学習の統一、科学・文化の創造2) 学習方法: 話し合い学習、生活記録、社会科学・自然科学の学習、調査・実験学習、研究活動 3) 学習主体と学習・教育組織: 教育主体変化、学習主体から(自己)教育へ、改めて社会教育機関の役割 |
初期公民館1) 施設教育: 公共性・近代性・民主性, 物的営造物(施し設ける - 団体中心性)2) 寺中構想と公民館: 「歴史的イメージ」(小川); 部落会館、農村公会堂、隣保会館等 3) 初期公民館 citizen's public hall: 公民館万能論、看板公民館、青空公民館 = 民主化・文化活動・地域振興と「公民」教育 自治公民館論争1) 倉吉市教育委員会『自治公民館のあゆみ』(1960): 宇佐川・福尾「現代社会教育」(1962)で積極的紹介2) 小川「『自治公民館』の自治性」: 自治性、上からの近代化、政治と教育の矛盾、グループワーク青年団と類似的活動 3) 朝倉秋富「自治公民館のねらいと可能性」: 居住者組織(部落会、町内会)の教育的再編、それと結合した政治的支配の克服。「ナマの生活課題」との結合 4) 佐藤千代吉「知事公方式とその意義」(1965): 教養主義と生活主義 → 福祉主義へ。自治公と公立公民館の二元論 → 自治会 = 部落公民館 5) 小川・花香実・藤岡「公民館の現代的性格」(1965): 地方都市・農村の公民館再編成の一典型-後進的な意義。新生活運動との結合、形式民主主義的な「住民自治」 |
都市化と公民館1) 市民公民館(市公民)方式市民会館に間借、「教養豊かな市民」階層、公民 → 市民的発想(⇔ 枚方テーゼ) 2) 公民館三階建論と公民館市民大学(公市民)方式たまり場、サークル活動、系統学習。都市の新中間層 3) 全公連の「今日的指標」と「第二次専門委員会報告書」4) 三多摩テーゼ 四つの役割と七つの原則 施設づくりの展開と生涯教育政策1) 「雑施設・乱施設」状況。全体としての貧困と大きな地域格差2) 校区公民館、学校=公民館。 cf. 京都ろばた懇談会 3) 生涯教育政策と住民の施設づくり運動。シビル・ミニマムから施設内容・構造へ 4) センター方式、教育産業、ボランティア方式の登場と教育臨調 |
心体に障害のある児童・生徒の学校 → 障害を知的障害、肢体不自由、病弱・身体虚弱に分ける 1) 精神薄弱養護学校
教育内容は小・中学校内容と大きく異なる 作業的指導をしている学校多 2) 肢体不自由養護学校
小・中学校各教科、道徳及び特別活動の他に、養護・訓練として、上肢動作や起立・歩行動作等訓練、日常生活動作及び作業動作訓練、及び発音発話を中心とした言語指導を主にすすめる |
Ex. 授業 = 作業中心(機織り、陶芸、椎茸栽培、レザークラフト等)。9時登校、10時半までクラス単位活動、12時まで作業 3) 病弱・虚弱養護学校各教科、道徳、特別活動の他に養護・訓練として心身障害状態を改善・克服する指導 4) 特殊学級
障害が盲・聾・養護学校対象とならない程度の心身障害児に、小・中学校で特別な教育を行う学級 |
高等中学校・旧制高校における自治制に関する歴史的考察浜田慎二 はじめに現在、寮生活を送っている筆者にとって、旧制高校の「寮自治」に対する疑問は大きい。現代よりももっと露骨に思想弾圧が為された時代であった。今の学生にとってさえ守るのが困難であると認識される「自治」を、何故彼らは保持し得た - 少なくともそう思っていた。戦時中、寮が学校報国団の中に組み込まれるまでは - のであろうか。彼らのいう自治の内実は何なのか。それはどういう過程を経て成立していったのか。本論では、当時の日本における旧制高校の位置けを踏まえ、寮自治制度の変遷を追うことによって、上記の課題を明らかにしていきたい。 第1章 旧制高等学校制度史概観第1節 中学校令旧制高校の直接の前身である高等中学校は、1886(明治19)年、「中学校令」(1)によって設立され、その目的は「実業ニ就カント欲シヌハ高等ノ学校ニ入ラント欲スルモノニ必須ナル教育ヲ為ス」ものであるとされた。それ以前の、「中学校教則大綱」によって設置されていた「高等中学科」は、「高等ノ学校ニ入ルカ為」のものであると規定されながら、こと東京大学(1886年帝国大学と改称)に関しては全く継がりが無く、事実上その準備教育は東京大学予備門においてのみ為されていたのである。 従って高等中学校の前身は、第一高等中学のそれが東京大学予備門、第三高等中学のそれが大学分校であった他は全くの新設であり、既に幾つか設置されていた高等中学科は、いずれもその母体とはならなかったのである。 高等中学校は、それ迄の同等中学科が府県の設立によったのに対し、直接文部大臣の下に置かれ、校数も極めて限定されていた。そこでは帝国大学各分科大学に対応された学科を置き、生徒は志望に応じてその何れかを選択することとなったのである。また、高等中学校の学力レベルはj非常に高いところに置かれたので、尋常中学校の整備が余り進んでいない初期には、そこの本科へ入学出来る生徒は甚だ少なかった。しかし、その為にレベルを下げることは行なわれず、学力が足らないものは予科・補充科へ回され、入学希望者の数にかかわらず、定員枠よりも大幅に少ない生徒のみで高等中学校は開校されたのであった。 第2節 明治27年高等学校令 1894年、「中学校令」に変えて「高等学校令」(2)が出された。これによって各科が高等学校と変えられ、また、その性格は専門学科の教授を主とし、帝大予科としての役割を徒とすることが意図されたのだが、専門学部には入学希望者が少なかったこと、及び専門学部生と大学予科生との対立、等の現実問題も生じ、専門学部は1906(明治39)年を最後に何れも改称、廃止され、高等学校は大学予科のみの学校となったのである。 |
(A) 高等学校入学者数 (尋常科 1918年の、この「高等学校令」(3)では、高等教育目的の変更が意図された。高等学校は、「高等普通教育」ヲ完成スル」ためのものであると定められ、大学の準備教育に限定されないことになったのである。この理念に沿ってカリキュラムが変えられ、設置主体も国だけではなくなった。そして、この時を境に公・私立校も含め、高等学校の校数・生徒数がそれまでに比して大幅に増加していくのである(A)。 しかし、実体としては大正期に設立された「地名高校」を含め、高等学校では全て大学進学希望者を前提とした教育を行なっていたのであり、大学入学を希望しない生徒も皆無に近く(B)、またその大半が帝国大学へ進学していったのである。
(B) 高等学校卒業者中、直ちに職に就い 端的にいえばエリート意識である。自分達を一般社会に比して一段高い所にあるものと意識していたことは、寮史・寮歌の中によくうかがわれるところである。生徒に対し、文相・学校長等は「社会の上流」に立つべき人間を養成するところであると、その面前で訓示しているし、また、それに対する生徒の言葉も十分にその意図に応じるものとなっている。そして、そういった意識は、高等学校が拡張された後、昭和に至っても全体としては変わることは無かったのである。 昭和に入ってからのものであるが、例えば記念祭等の寮開放に際しての、「どうせ市民を喜ばせうるものは解り易くなくては駄目だ」(姫路高白陵寮史 p. 363)、「比較的低度な町の人の頭で我々の苦心の作品を変に解釈されてもつまらぬ」(水戸高暁鏡寮史 p. 425)等々の記述から彼らの意識が垣間見られよう。 |
第1節 自治制施行以前 高等中学寄宿舎は、設立初期から単に遠隔者の便宜を図る為だけのものでは無かった。寺崎昌男氏が、明治10年代の書生達の自由民権への動きとそれへの政府の対応について述べているが、特に東京・大阪の大都会に設置された学校にあっては、そういった動きから遮断する意味もあって、多くの場合「訓育」を行なう場所として寄宿舎の必要性が重視されたのである。 自治以前、の寄宿舎は、舎監が直接寮生活を監視し、食事は特定の業者に全てを委託する、という形で運営されていた。その状態の中では舎監襲撃、賄征伐が頻繁に起こっており、そういった日常生活の中で不満の意を表す為にとられた行為について、各寮寮史は概ね自治志向の表れであるとしている。また、第三高等中学ではそういった状態の産物として、組長制度が敷かれ、さらに「宿舎生徒組合規約」が舎生の手によって作成されたとされている。内容的には自治制とは言い難いものを多く含んでいたとはいえ、後年の「自治制」に似通った形式を持っていることは注目すべきであろう。また、第五高等中学では、賄征伐の対策として自炊制が早くから取り入れられている。 こういった動きは、寄宿舎運営上、「自治制」への移行は一定の必然性を持っていたということ、また、学校側にとっては「必要な措置」としての面を含んでいたことを示しているものと思われる。 賄征伐 - 飯が不味い、炊事人の態度が悪い等の理由で行なわれた。例えば出された飯に一切手を付けないで捨ててしまったり、食器を壊したり、等々の炊事人を困らせる行為を指す。時には、全寮生あげての「大征伐」が行なわれている。 第2節 第一高等中学校寄宿舎における自治制 1890(明治23)年2月24日、校長木下広次は、「全国五高等中学の首に位」する、「我校」の生徒達に「十分なる信用」を置いた上で、所謂「自治制の訓示」を行なった(向陵史 p. 4)。第一高等中学校宿舎では、生徒がこれに応えて日本の教育機関始まって以来の「自治制」を敷いたということになっているのだが、木下の意図した「自治制」は、養成すべき徳育として木下自身が予め四綱領を定め、その達成の為に「諸子互に戒めて自ら治めば」という条件付きで与えられたものであった。また、彼はその2年前の教頭就任演説の中で、教頭である自分は、生徒の意向如何に関わらず「自由ノ判断」を取り得ると明言しているのである。 |
そういった木下の意向を受けて作成された「自治寮規約」は、日常生活の細部にわたってまで自らが守るべき決まりを定め、それを連帯責任制の中で守っていくという内容のものであった。単に生徒管理という観点のみから捉えれば、学校と生徒がその目的を一にし、かつ最終的な権限が学校が持つという状況下での連帯責任を伴った「自治制」は非常に効率の良い生徒管理形態であるとさえ言い得る。「自治制」施行の直後には、賄征伐を寮委員が押さえにかかる、といった事例も生じている。生徒の「自治意識」は学校にとって非常に都合の良いものであった。 「自治」を受け入れる際に、それの全うは「徳義の点」において秀れていることを示すものであると生徒が述べているが、要するに「言われたからやる」のではなく、「言われなくてもやるべきことはやる」というのが「自治」の中身であった。そしてそれは木下が言うように、第一高等中学の生徒だからこそ与えられ、生徒もまた、第一高等中学の生徒であるという自覚を持って受け入れたのであった。 第3節 他のナンバースクール寄宿舎における自治例 第一高等中学寄宿舎が「自治制」になったからといって、他校が直ちにそれにならった訳では無かった。先ずは自炊制のみ導入された第五高等中学、舎監の権限は大幅に認めながらも規約の作成は寮生の手によった第四高等中学、学校によって「自治制」へ至る過程は様々である。また、木下広次の訓示によって、突然の形で「自治制」が始まったとされる第一高等中学とは違い、他校では「自治要求」が様々な形を取りつつ為されてはいるが、寮史という限られた資料の範囲でいえば、一高の影響であるとしているところが2校あるにせよ、いずれもその根拠は明確ではない。また、「良き指導者」を求める声は何れの学校生徒においても高く、自らを指導されるべき存在として明確に意識していたことがうかがわれる。 しかし、いずれにせよ大正の初めには、概ね他の高校でも「自治制」 - 守るべき規約を寮生が作り、それを寮生自身によって守る、という形 - となっていったのである。 「地名高校」 明治期に設立された「ナンバースクール」に対して、大正8年以降に設立された、例えば山口高等学校等の地名を冠せた旧制高校の総称 |
第1節 「地名高校」寄宿舎における自治制 「地名高校」開設の頃には、ナンバースクール寄宿舎の「自治」については、例えば雑誌などを通じて一般的に広まっていたものと思われる。「地名高校」では大体において、寮生の手による寮内規約の作成を学校側も前提としながらも最初は厳しく監督し、数年のうちに寮生の手による寮運営へ変わるというパタンを踏んでいる。ナンバースクールの「自治制」を基準にすれば、そのレベルには、学校によって差はあるにせよ、何れも短期間で到達しているのである。それについての学校側の態度は、奨励こそすれ、積極的な反対というものは観られない。ナンバースクール寄宿舎のあり方が、一定参考になっているのであろう。 また、寮生側も「自治」を当然のものとして受けとめている。コンパやストーム等の寮行事とともに、「自治」もナンバースクール寄宿舎で行なわれていたから「地名高校」へも持ち込んだということであろう。高等学校寄宿舎のあり方を、ナンバースクールのそれに求める意識は、例えば開寮前に既に寮歌(校歌でも生徒歌でもない)を作っていたり、初代寮生が新入寮生を迎えるにあたってストームの練習をしていたりと、筆者などの想像以上に強かったものと思われるからだ。また、実際に他寮視察がナンバースクールを対象として頻繁に行なわれている。こういったことは、ここにおける「自治制」は寮生の内からの要求ではなく、「自治意識」をも含めて借り物であったということを示していると思われる。 第2節 旧制高校寄宿舎の自治制の発展と限界 昭和初期に入ると、どこも「自治寮」と自らを称する状態になっている。しかし、それで固定された状態になったという訳ではなく、「自治寮」となってからも寮内部の制度的充実は図られ続けていた。例えば自営の購買部・理髪部・洗濯部等が設置されたりし、また、寮内組織も必要に応じて改められていく。学校側が生活内容に干渉することは殆ど無くなっていくのである。当時の寮生達が学校から自治を任され、そしてそれを発展させていったと考えていた所以であろう。しかしその反面、形式的な自治 - 寮に関する問題の最終決定は寮生自身が為さねばならない - にこだわるあまり、寮生が自らの意思を曲げてしまう事例は少なくないのである。 |
例えば、学校側が寮生に対して門限の設定であるとか、寮の周囲に柵を作る等を行なおうとする場合、あるいは警察官が寮に入る場合、「寮生に無断で」それが為される場合には猛反発しても、一旦寮委員の許可を経る等しさえすれば学校側の言う通りになってしまった事例は多い。 また、記念祭の部屋装飾一般公開に際しての事前検閲などは殆どの寮において行なわれており、寮報等の検閲も、その発刊に際して寮生自ら申し出ている場合すらある。 ところで、大正末から昭和初期にかけて、所謂「学生社会運動」が盛んになるが、「左翼思想」は殆どの寮で寮生自らの意思によって排除されている。また、自治権拡大の要求が社研等から出されたりするが、それが寮生全体の声となることもない。 1931(昭和6)年、満州事変が起こされるが、その際、「世論轟々としてその戦争の是非を論じている矢先」に軍に激励文や慰問金を送ったのは高校の寮生達であった。彼らのこういった働きが、昭和15年頃まで「自由の砦」として外見的には「自治」であり続けることが出来た1つの要因であろうと思われる.部分的にはともかく、全体としてみれば「自治」寮生達の動きは国策と外れることは無かった。 旧制高校寄宿舎は、新入生に対しては原則的に1年間の全寮制を敷いていた所が多いが、これは学校にとって寮が最も管理しやすい場であったことを示していよう。実際、寮生規約の作成にあたって学校側が全く関わらない例はなく、寮生大会決議の実行の際にも多くは学校の認可を必要とするのである。 ナンバースクール・地名高校に関わらず、そしてどの時期においても、旧制高校校長等は、自治を自ら律することである、という面のみで捉えており、また、彼らが生徒の自治を言う際には「自治訓練」という言葉を用いる例が多い。旧制高校寄宿舎にはそういった「自治」しか許されなかったし、また、そこから脱せんとする要求が寮生全体のものになることもなかったのである。 |
結局のところ、旧制高校寄宿舎における「自治」は、制度的にも意識的にも学校側の手のひらの中に収まるものでしかなかった。しかもそれは旧制高校生だからこそ与えられ、彼らだからこそ受け入れた「自治」であった。従って、彼らが彼らである所以 - つまり将来、国家の中枢を担う人間達になるということ、から外れるような動きは大きなものとはならなかった。国体批判はそこでは起こり得ず、左翼思想の台頭に伴って結成される右翼的団体に象徴されるように、寮内あるいは校内に自ら思想チェックをする、またはそれを許す部分を持ち続けていた。そして学校にとって最も管理しやすい対象であった寮生達は、学校側の期待に背くことは殆ど無かったのである。 これは、国民全てが臣民として位置付けられていた時代の限界であったとは言い得よう。そしてその中で、ほんの限られた人数のみが独占的に高等教育を受け得るという制度が、その限界を一層低いものにしたのであろうと思われる。 |
今後の課題として(もっと緻密に資料にあたること、というのは一応置いといて) 旧制高校に入るということは、ある意味で帝大も含めた7年制の学校に入る、ということを意味していたのであるが、帝大の持っていた役割を踏まえ、その上で帝大生と旧制高校生徒を比較すれば、「旧制高校生徒社会」の閉鎖性 - あれは高校時代だけのこと、といったもの - を指摘し得るものと思われる。その閉鎖性から「自治」の質を論じることも必要であろう。また、時期的には戦時中、寄宿舎も学校報国団に組み込まれ、「自治制」では無くなるときの生徒の意識と行動を調べれば、「自治」の内実と限界がより明らかになるものと思われる。 |
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1984年北大祭 1984年北大祭へむけて'83年北大祭全学実行委員会事務局会議討論資料 19894.4.24第25回北大祭実行委員長 市村猛樹 ☆はじめに...1984年度北大祭の成功と、今後の北大祭発展の祈りを込めて、今まで僕が表現して来た事をここにまとめる。これは自分に対する批判でもあり、苦悩の結論でもある。 恵迪寮自主入銓闘争と'84全学新歓のお互いが密接に絡み合った混沌とした動きの中でもやはり学祭(特に全学祭)への取り組みは教養祭、医学展を除きかなり遅れている。その様々な原因について言及する事はここでは避ける。 とにかくここでは、'84北大祭へ向けて僕が行って来た準備会の経過をまとめ、今後の取り組み方について考える事にしたい。 ☆'84北大祭全学実委準備会の経過(結集状況) 2.28 医(実)・教養祭(準)・農(実)・教育(自) 3.06 流会 3.13 理(自)・教育(自)・教養祭(準)・文連・医(実) 4.03 医(実)・教育(自)・教養祭(準)・文連 4.10* 教養祭(準)・医(実)・薬(自)・経ゼミ連・理(自)・文連・女子寮・教育(自)・楡法会 4.20 流会 *: 4.10は招請状により呼び掛けた... ☆資料目次 ・「1984第26回北大祭へ向けて」(全学新歓結集団体へ配布)・「昨年度全学実行委総括」と「実行委体制」 ・「北大祭の意義」と「全学実委の意義と任務」 ・「北大祭の意義」(第2原案) → 4.27 ・招請状 1984第26回北大祭へ向けて前北大祭全学実行委員長 市村猛樹 □ ある一つの危惧より北大祭は毎年恒例の行事だが、過去の資料を見る限りでは年を経るごとに企画内容の実質的低下が目につく。大学祭の模擬店祭化、単なる有名人の呼び屋的"お祭り"化といった傾向は全国的にも表れているが、北大祭においてはそれに輪をかけるように、ノルマ的学祭化、学生主体の冷却化が著しい気がする。このままの状態を継続し、単に行事を消化するだけに終わるのであれば、北大祭を行う事自体無意味な事となり、無理に横のつながりを保とうとする一部の元気な学生たちが、体力・気力を消耗させるだけに過ぎなくなってしまうのではないか。そんな危機感を抱かざるを得ない。 この根源的理由を僕自身が論理的に解釈しようとしても、おそらくそれは、単なる「評論」に終わるであろうし、そのような手順を踏んでいる間にも刻一刻と時間は過ぎて行く。そして、いやがおうにも第26回北大祭はやってくる。 それでは我々はどうしたら良いのか。新歓期も押し迫り、ゆっくり考えている暇もなくなってくる。 おそらくこのような危惧を抱きつつも、ある一方では身近な部分での個々の取り組みは進んでいるであろうし、一定のスケジュールも立てられるかもしれない。そして例年通りに進める事によって、とりあえず北大祭を消化する事は可能だし、それ以上の事はする必要がないと思っているかもしれない。 僕が具体的に何を指してこのような事を述べているのか理解されないかもしれないが、とにかくこの焦燥感を何とかしたいがために、今まで北大祭、各学部祭を担って来た人々に生の声を語ってもらいたいと思っている。そして新たな「北大祭運動」を創造する方向で協力し合って行きたいと思っている。 □ 何から始めたら良いのか まったくゼロの状態から始めるわけではない。昨年の総括もあるし、反省点も山積みされているはずだ。そして何よりも今までの北大祭を実感している人達が集まっているのだ。今までまずかったのは、これを最大限利用して後の世代へ伝えようとする姿勢が十分ではなかったからではないだろうか。「北大祭がいかにあるべきか云々」という以前に、過去の総括・反省点などをじっくりと見直すことから始めなければ机上の空論に終わってしまうだろう。そしてその上で現在進行中の各学部祭の取り組み状況(特に医学展・教養祭がかなり進んでいるみたいですが)を正確に出し合い、早急に対応を考えて行こうと思う。 □ これからの予定 新歓期の取り組みも念頭に置きつつ、北大祭全学結集の意義と組織運営上の問題点について討論する期間を設けたい。さらに、現在企画中のものについて、資金面かや内容の点から見て全学企画化できるものは早急に全学企画として準備を進め、実行委員会が未結成である学部については、当面学部自治会がその性質を担うものとし早急に全学実行委員会を結成させたい。 □ 今すぐにでも取り組むべき事 ・各学部祭実行委員会結成の呼び掛け情宣 ・北大祭全学実行委員会準備会体制の確立 ・北大祭に関する当局交渉(主に施設使用・物資・公認問題)
次回準備会は2月24日金曜日 恵迪寮共用棟2F共同談話室にて 第1回北大祭全学実行委準備会レジュメ□ 昨年度北大祭全学実行委総括[1983.6.25レジメと議事より]に加筆 =結成の時期= 前年度よりもテンポは早かったようであるが、連絡不徹底が目立ち円滑ではなかった。学部祭実行委の結成が遅い学部などは、予算をまとめる事で精一杯であったり、全学実行委内部でのつながりも希薄であったため、問題点が不明確なまま残った。 準備会結成を早期に行い、問題点を明確にする中で体制を確立し、同時に準備会が全学新歓に取り組み、教養祭の成功に援助しつつ、北大祭全学実行委員会の存在・意義・任務をもっと強くアピールする事が必要である。 =意義と任務を果たせたか?= 1983.5.7 第一回北大祭全学実行委で確認された「意義と任務」(簡略)
1) 各学部祭間の窓口一本化 それでは第25回北大祭では実際どうであったか。 窓口一本化の点では前年同様に、全学実委が公認化され、クラーク会館内事務局設置、電話設置がなされ、その役目を果たせる状況にあった。しかし、事務局員不足のために事務作業に手間がかかったり、学部祭実行委結成がなかなか成されないといった状況も絡んで、教養祭のコーラ単独注文や、2つの音楽祭の実施(教養と医展)などに見られる様に、十分機能し得なかった。 活動状況の集約等も、時期的に切羽詰まっていた事もあり不十分であった。 今後は早期結成とともに、事務局員増加、連絡体制確立を併行して考える必要がある。 =全学企画=(ナイトハイクは雨天により中止) 1. 仮装行列 5.29(日) PM 0:00 教養前メインストリート出発 ・準備段階 道路使用申請書の提出が遅れ、日程変更を迫られそうになったが、話し合いによってなんとかなった。次回は実行委員長が決定(もしくは内定)した段階で、約2ヶ月前に提出した方がよいと思う。 ・当日 自主整理には教養祭実行委事務局が中心となって動いた。次回もそうなると思う。仮装の参加団体各々の山車・仮装は昨年、一昨年に比べてレベルが高かった。※仮装行列の位置付けがあまりはっきりしない。 2. 前夜祭 6. 1(水) PM 6:30 教養部S棟裏 プログラム ・コピーバンド Jazz研、Folk研、軽音・演研 + Jazz Dancerの金粉Show・ファイヤーストーム 援団演舞・ゲーム大会 約250名結集 準備の段階で二転三転した前夜祭であったが、結集率は高かった。今年は、実験的に行ってみたが、まずまずの出来だったので似た様な形で来年以後続けようと、企画代表者の間で話し合われた。電気は教官棟から引いた。 11時まで続き最後にファイヤーストームの消火をもって終了となった。 3. シンポ 現代の右傾化を憂慮する-原理運動を考える- ・準備段階 シンポの企画案を全学に募る事は出来なかったが、割に関心を引いたようである。 原理研メンバーが公開質問状を実行委宛に出して来たが直前だったので招集がかけられず、当面事務局で処理した。 ・当日 約100名参加 企画承認の段階では、原理研が入場していても、特に差別的に排除する事は考えていなかったが、真っ向から妨害し、実力阻止をも厭わない姿勢を示して来たので、止むを得ず事務局判断で排除した。 シンポそのものは成功であった。 報告資料を出す予定で、予算残金のうち\25,000を上限として支出することとなっていたが、事務局員の不手際により、作成が進まず、取りやめる事になった。したがって、予算残金はそのまま全額繰越金として次回にまわす。 □ 実行委体制について
[ 実行委員会 ] - [事務局] i) 構成は各学祭参加団体(各学部祭、文連、寮連、体育会)代表1名以上 ii) 執行機関と議決機関を兼ねる iii) 委員長、副委員長、財政担当を置く 情宣、共同購入、パンフ作成等担当者を決めるべき 2 事務局i) 事務作業を実行委員会の決定に従って行う ii) 各学部で仕事を分担してやるのでも良い 問題点 ☆サークル参加が不明確である。現実には教養祭実委に組み込まれている。 |
◎新体制(案)
決議機関_________執行機関_____事務作業 i) 構成は各学部祭実行委員会代表1名以上 ii) 学祭に関する原則的な決定をする機関 2 常任委員会 i) 構成は委員長、副委員長、各部局長。委員長は実行委で選出。各部局長は委員長の任命で決定し、実行委に詔る ii) 実行委に対して責任を持ち、企画、実務、財政の執行を行う iii) 準備会の結成、次期全学実行委結成までの責任を持つ(資料、物資、財政の管理を含めて) 3 事務局 i) 実務作業を遂行する ii) 実行委員長の任命による 4 オブザーバーの参加団体について 文連・体育会・生協・寮共闘 ・日常的な動的学生団体としてはどれも価値の高いものであり、学祭発展の担い手として十分評価出来る。したがって、決議権はなくとも、実行委員会の場において、企画提出(発言)の自由を認めたい。 ○準備会体制: 上記の実行委体制に準ずる □ 北大祭全学実行委員会の意義と任務(案)は次回討論□ 全学新歓への取り組みについて □ これからの予定 ※当局提示の学祭期間 6/8(金)-10(日) 3/ 6 第一回準備会 昨年度総括、体制、新歓への取り組み 3/13 北大祭の意義確認、実委の意義任務、全学企画について
↓ 5月中旬 全学企画決定 (具体的な仕事に取り掛かる) 北大祭全学実委の任務と体制北大祭の意義を十分に理解した上で次の事を任務として遂行する。1 各学祭参加団体間の窓口の一本化 1) 学生部当局に対する窓口の一本化: 北大祭全学実行委を全学団体として公認させ、事務局室設置、内線電話設置、クラーク会館使用、物資援助確保、道路使用、掲示物使用を可能にする事により、北大祭準備の円滑化を計る。 2) クラーク会館、他、学部諸施設の使用調整をする。 3) 企画の競合調整と合同の可能性を追求する。 4) 体外的窓口を一本化する。
a. 酒類・コーラ類共同購入。テント類借入、学外諸施設使用許可申請(仮装行列など) 1) 物資援助の保障(最低80万)を実現させる。 2) 学祭における施設使用規制に反対し、それを排除する。 体育館使用規制排除、仮装のゴミ処理費当局負担、教養の駐車場・教室使用制限排除、道路交通規制(学祭期間中の自動車の乗り入れを原則的に禁止させること)、道路・芝生等の掲示規制排除等の問題を解決するために全学実行委員会として団結する。 3 北大内の学術・文化・自主的活動を総集約し、各々の発展に向けた交流・情報交換を行う1) サークル・クラス・有志等自主的活動の状況の把握と情報交換 2) 学祭参加団体間の各々の発展に向けた交流・情報交換を行う 3) 学部の学生生活・教育研究に関する情報交換を行う 4) 必要に応じた物資援助を行う 4 北大祭の歴史と意義を全学に広めるとともに継承する
a) 北大祭の発生や、歴史の中で北大祭の変遷等を掘り起こし、今後の発展に役立てる 6 他大学との学術・文化の交流を計る: 他大学の学祭実行委員会と連絡を取り合うなどして、全国的な大学祭状況を把握する 組織体制
[ 全学実行委員会 ] - [ 常任委員会 ] - [ 事務局 ] i) 構成は各学部祭参加団体代表組織(各学部学祭実委・文連・寮共闘)代表1名以上の結集 ii) 原則的な決定を行う iii) 実行委員長の選出を行う 2 常任委員会 i) 構成は委員長、副委員長、各部局長。副委員長・各部局長は委員長が指名 ii) 実行委に対して責任を持ち、企画、実務、財政の執行をする iii) 準備会結成、次期全学実行委結成までの責任を持つ(資料、物資、財政管理含む) 3 事務局 i) 実務作業を遂行する ii) 実行委員長の指名による 4 オブザーバーの参加団体について 以下の団体を北大祭の意義に沿う形でオブザーバーとして位置付け連絡をとり続ける 体育会、生協 今後の取り組み・各学部祭実行委員会結成を促す(遅くとも教養祭実行委員会結成以前) ・教養祭実行委員会結成後、全学実行委員会を召集 ・体制の全学徹底 北大祭の意義 [改定版] 人は誰でも自己の中に心理探求の知的欲求と未知の創造性を秘めている。大学は、我々学生が学問を通じ、あるいはサークル活動やクラス活動を通じ、知的欲求を満たし、創造性を開花し、自分の新たな方向性を創り得るべき「器」である。この「器」としての大学生活を十分に生かし切るために、学生主体は各々一個の人間である事を自覚しながら他者との対話を持ち、お互いを磨きあいつつ「何か」を創り上げようとするのである。 日常的に我々は、その生活の大半を講義によって知識を溜めこむ事や、比較的狭い範囲の人間関係によって「群れ」を作り講義に合間をぬって行う自主的クラス・サークル活動に費やしてしまう。下手をするとこの日常的な生活はマンネリ化し、覇気のないものとなるかもしれない。だがその成果は常に自己の内面にも「群れ」の中にも刻々と蓄積されているだろう。みんなは「何か」を創りつつ生きているはずなのだ。この蓄積された成果を掘り起こし様々な形で表現し、同時に新たなる発見ができる一つの大きな「場」として大学祭がある。 そして我々北大生の学問研究や自主的クラス・サークル活動の成果が総集約され一つの結実となり「北大祭」ができあがるのだ。 受験体制に縛りつけられ受け身的教育に従順にならざるを得なかった我々学生は、大学入試後も教養部カリキュラム強化や教室使用制限、'81年学生会館強制撤去、'82年教養部自治会室強制撤去、等日常的に自主活動の場を奪われ続けていることなどにより人間関係も希薄になりつつあり、ともすると自分の方向さえも見失いがちかもしれない。だがこの状況は、北大祭で「何か」をやろうと乗り出す事により打破出来るだろう。 北大祭への取り組みを通じ、クラス・サークル員の交流・連帯は深まり、同時に多くの対話を通じ自己の内面をも見つめる機会も増えるに違いない。そして他の「群れ」との出会いが、未知なる知識や活動成果との出会いであり新たな方向の発見の糸口となるかもしれない。 このように、自己と「群れ」の活性化、新たな方向性の認識、そしてその成果としての「何か」を実現するところに北大祭の意義がある。 さらには北大祭を成功させる事によって、その「器」である北大そのものを徐々に変化させることもできるのではないだろうか。
招請状 4.27 第1回全学実委結成(委員長選出) → 公認申請 → 事務局室設置・物資確保 5. 4 第2回全学実委
• 全学企画決定
• 常任委員承認
• 各団体の取組状況把握
• 報告・調整
• 学祭諸問題の検討 5.25 第5回 このあたりでパンフ原稿締切 6. 1 第6回 (最終確認) 6. 3 仮装行列
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