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(2019年3月4更新) [ 日本語 | English ]

歴史 (history)






有珠山 / サロベツ泥炭採掘跡
1986年, 2006年の有珠山火口原. ワタスゲ・エゾカンゾウ

当然、様々な区分がある (人物)

時代区分


ポイント: 史実中、生態系に(大)影響を与えた出来事ピックアップ
戦争・大乱ばかりでなく、遷都、大規模建造物建築等で大規模森林伐採 + 天変地異(3)や大火の記録

先史時代 (prehistoric age)

文字がない

[ 地質年代 ]

旧石器時代: -BC14,000

[ 縄文の森 ( Jomon fores t)]

縄文時代: BC14,000-BC300
弥生時代: BC300-BC250
古墳時代: 250-600末

有史時代 (歴史時代, historic age)

文字成立 → 文献資料による歴史事象検証が可能
古代: 593 (飛鳥) -1160/1185 (平安)
文明成立 - 古代文明(崩壊)まで
592(593)-710 飛鳥時代
710-794 奈良時代
794-1185 平安時代
中世: 1160年代(平安末期)-安土桃山時代
平安末期: 平氏政権成立 →
1185-1336 鎌倉時代

1333-1336 建武の新政

1336-1573 室町時代 (1336-1392 南北朝時代)
(1493-1590 戦国時代)
1573-1603 安土桃山時代
索引
近世
武家政権による統一支配の考え方の違いで3つの区分に関する見解
  1. 豊臣氏滅亡(1615年, 元和元)以降 + 江戸時代
  2. 安土桃山時代 + 江戸時代
  3. 戦国時代 + 安土桃山時代 + 江戸時代
1603-1868 江戸時代

1853-1868 幕末

近代: 1868-1945
明治-太平洋戦争終戦前
1868-1912 明治
1912-1926 大正
1926-1989 昭和
現代 (modern age): 1945-現代
= 1945 連合国軍占領以降
1989- 平成

古代 (Antiquity)


朝鮮半島との関係

BC 4 c. 朝鮮半島: 複数国並立 Ex. 南部 = 韓国、北部 = 朝鮮国

→ 韓以外は中国の漢hanに侵略され、楽浪等複数の属国に分割
楽浪: 高文化栄え、金印で有名な北部九州国、那(1世紀頃)も楽浪を通じ漢と交流
漢衰退後、朝鮮半島東北部に高句麗 go-gu-ryeo 誕生 → 一時は全半島支配

大和朝廷: 日本列島関東以西-北部九州勢力下

⇔ 中国: 多国群雄割拠 = 朝鮮半島介入余裕なし

369 倭軍、朝鮮半島出兵  任那に日本府設置し半島南部確保

200年間に渡り、朝鮮半島情勢に干渉し、高句麗・新羅・百済勢力は均衡したまま事態推移

478 倭王武(= 雄略天皇?) 上表文(国書): 中国南朝宋に送る

朝鮮半島南部での倭の優位保障目的
倭王武祖先が当方の毛人の国55国を征服(記録) – 日本東方を概ね制圧

527 磐井の反乱: 任那に向かう朝廷軍を筑紫磐井が新羅と結び妨害 → 鎮圧

6c半: 韓国, 新羅勢力↑ = 百済圧迫 → 百済聖明王 日本に仏像他を贈り援軍要請

仏像が日本で神道対仏教という宗教論争引き起こす
→ 日本援軍どころでない間に聖明王は新羅に殺される。新羅は任那も滅ぼし勢力範囲拡大

538(552) 仏教伝来: 百済の聖明王、仏像・経典を献上 – 正式な伝来

中国: 隋 → 唐 → 新羅は唐と結び朝鮮半島完全支配目指す
日本: 仏教派勝ち、聖徳太子の元、大王個人による武力支配から法的統治体制へ移行し国内安定化


古墳 (ancient burial mounds)

長さ数10 m-500 m規模の盛土(墳丘)を持つ墓 → 弥生時代既出。地方により形状様々

古墳を形作る高い盛り土が墳丘で、墳丘外側は周溝(堀)が巡り墓域を区画
墳丘崩れないよう表面を河原石(葺石)で覆う工法や、数m積むごとに平面を設ける等工夫

古墳の移り変わり
3世紀後半
[様式] 古墳画一的
[地域] 近畿・西日本各地
[政治] 広域政治連合形成・中心は奈良東南部
4世紀中
[様式] 大型前方後円墳
[地域] 東北地方中部まで
[政治]東日本まで大和政権連合下
5世紀
[様式] 巨大古墳・巨大前方後円墳
[地域] 河内平野 / 岡山・群馬・京都北部・宮崎
[政治] 大和政権強大化
Ex. 朝鮮出兵、鉄剣・鉄刀銘
6-7世紀 [様式] 竪穴式石室普及

壁画・装飾古墳・地域色
小型古墳の爆発的増加

[政治] 有力農民の台頭 / 古墳の家族墓化 → 古墳衰退 前方後円墳: 3c-6c末。3850基確認 → 首長墓基本形として全国分布。時代により形状差
前期(3c末-4c): 前方部が後円部に比べ細い柄鏡形平面で高さも低い。主に山斜面や台地縁
中期(5c): 巨大化・規格化。前方部幅と後円部直径、高さほぼ等しく整う形。主に平野部

大型墳: 周溝外側に陪塚と呼ぶ小型円墳や方墳が築かれ、近親者が葬られたり儀礼が行われた

後期(6c): 古墳規模小さくなる。前方部更に発達し後円部より大きく高い
前方後方墳: 前方後円墳の円の部分が四角形をしたもの。山陰や東海地方に多く分布

双円墳: 円墳が2つ繋がった様な形(確認数250基 = 少)

方墳: 平面が四角形、墳頂部平形

首長墓周囲に多い。終末期には大規模な首長墓としても作られた

円墳: 古墳時代を通じ全国に分布した古墳(古墳総数の9割以上)
つくり出し付円墳: 円墳に祭事等を行う四角形の突起がついたもの
上円下方墳: 方墳の上に円墳をのせた形の古墳で、古墳時代終末期
八角墳(多角墳): 古墳時代末期。主に飛鳥地方に見られる

正八角形の平面持つものは上円下方墳とともに天皇クラスの人の墓と考えられる

帆立貝式古墳: 山形県-鹿児島県分布。前方後円墳の前方部が極端に小さくなった形

つくり出し付き円墳と形は似るが、周溝が盾形を示すこと多い


三角縁神獣鏡
日本 - 400面以上の三角縁神獣鏡出土 三角縁: 鏡縁断面形が三角形に突出(平縁: 縁が平)
神獣鏡: 鏡裏面に中国神仙思想を題材にした神仙と竜虎等の霊獣がある
舶載鏡: 精巧・文様鮮明 → 中国産鏡
縫製鏡: 残る100以上の鏡は粗悪で文様不鮮明で銘文がない特徴 → 模造国産品? 1994.1

黒塚古墳(天理市): 33面
神原神社古墳(島根県大原郡加茂町): 「景初3年」銘入1面
剣崎長瀞西遺跡(群馬県高崎市)等: 「正始元年」銘入鏡発掘
→ 魏志倭人伝: 卑弥呼が239(景初3)年から度々中国王朝遣使 → 返礼に魏王朝より銅鏡百枚を下賜され三角縁神獣鏡が相当 → 黒塚古墳の三角縁神獣鏡は邪馬台国畿内説支持
否定見解: 「中国で三角縁神獣鏡未出土」。考古学者王仲殊(1981 中国)が「日本出土銅鏡は日本渡来呉鏡工人作成 = 中国製否定」、「魏王朝が卑弥呼に送った銅鏡は100面(魏志倭人伝) < 三角縁神獣鏡」

飛鳥時代


507 継代天皇: 大伴金村らが越前より迎え擁立 → 531(539?) 没 → 王権分裂?
512 大伴金村: 伽耶(任那)4県を百済に割譲 → 540 失脚
540 欽明天皇即位
587 蘇我馬子聖徳太子ら → 物部守屋滅ぼす

推古天皇(592): 東漢直駒を使い崇峻天皇を殺害し即位させられる

603 冠位12階: 姓の世襲制廃止 → 冠位は個人の才能・功労に基づき1代限り(律令制の源流)
604 憲法17条
607 第1回遣隋使(小野妹子)派遣: 隋皇帝煬帝に国書(初の対等外交)

寺院建立 (法隆寺 → 世界最古の木造建築、四天王寺、法起寺等)

7c以降, 都しばしば奈良県飛鳥地方
舒明 (629.1)
630 犬上御田鍬等 唐派遣(初の遣唐使)
高極 (642.1)
孝徳 (645.6)
645 6.12 乙巳の変: 蘇我入鹿暗殺

中大兄皇子(天智天皇)・中臣鎌足(藤原鎌足)ら

645. 6.19 大化の改新: 年号定める = 大化元年

安部倉梯麻呂大臣任命
646 改心の詔: 公地公民制(全ての土地は国のもの)

条里制 = 条里集落: 方形の地割を備えた大和地方を中心に成立した集落 (現: 三条、十里)

百済は日本に支援要請 → 皇太子中大兄皇子: 母斉明天皇を立て大軍率い九州に達するが天皇病亡

皇子は天皇遺体を都に運んだ後、即位式もせず九州へ戻り出兵号令
戦乱1年以上。百済同様、新羅の圧力に悩む高句麗も呼応する動き

斉明 (655.1)
天智 (661.7)
663 (天智2).8 白村江 baeg-chon-gang の戦い
朝鮮半島白村江で日本水軍は唐水軍に敗北
朝鮮南部で新羅軍と戦う倭軍に、百済baeg-je復興軍のこもる周留城に唐tang・新羅si-la連合軍迫る急報
→ 倭軍直ちに百済復興軍救援に錦江河口、白村江に水軍400艘差し向けた
8.17: 既に唐・新羅連合軍は周留城包囲 + 唐水軍170艘は倭水軍を白村江で待つ

倭水軍400艘白村江下流集結 → 船数多いがサイズ違う + 日本軍主力は航海疲労 vs 敵準備万端

8.27: 倭水軍 vs 唐水軍
8.28 決戦

倭軍船炎上壊滅 → 倭兵惨敗 = 中国側史書「四たび戦って捷ち、その船四百艘を焚く。煙と焔、天に漲り、海水皆赤し」
倭軍は「赤壁の戦い」の曹操水軍の如く火攻めに敗北 → 倭水軍 = 「飛んで火に入る夏の虫」
勝因: 火攻作戦(諸葛孔明考案) - 条件 = 敵水軍風下 + 軍船同士接近
+ 戦力で優位に立つ倭軍の油断
208(後漢末) 赤壁の戦い: 揚子江中流の赤壁で呉孫権-蜀劉備連合軍が、魏曹操軍を破る水上戦

→ 捨身の攻撃敢行隊全滅 → 日本軍撤退以外に選択肢ない: 他拠点も唐・新羅連合軍に落ち百済滅亡

残る高句麗も唐に滅ぼされ、暫く後新羅に譲渡される → 朝鮮半島は親唐の新羅により統

中大兄皇子 → 大和へ戻り天智天皇即位後、新羅日本侵攻防備に九州に水城(みずき)建築
全国から兵士集め防人防衛任務

逃げ易いよう琵琶湖沿岸大津に遷都(壬申の乱で天武天皇天下取るまで首都)

668 近江令
弘文 (671)
天武 (672) 672.6 壬申の乱

天智天皇後継者争 -大海人皇子(天武天皇, 天智天皇の弟)権力掌握
→ 大海人皇子が大友皇子(弘文天皇, 天智天皇の子)との争い勝利

681? 飛鳥浄御原令
持統 (686.9)
文武 (697.8)
701 大宝律令: 刑部親王、藤原不比等ら編纂 → 律令国家

班田収受法: 6歳以上に田貸し徴税

元明 (707.7)

氏姓制度

氏: 血縁的組織 →
氏上(うじのかみ) = 氏の首長
姓(かばね) = 氏上が大王からもらう政治的地位

臣: 大和政権同盟の者 + 吉備・出雲の地方豪族

Ex. 平群、蘇我、葛城、安部

連: 王権における職務を氏名とし、早くから大王家に服属していた者

Ex. 大伴、物部、中臣、土師

君: 筑紫・毛野等の有力地方豪族
直: 一般の地方(国造)豪族
→ 大臣・大連: 大王が臣・連のうち有力な者を任命
→ 大夫(まえつきみ): 重要事項は有力氏族の代表が加わり合議

土地
皇室 = 屯倉(みやけ) → 子代・名代(こしろ・なしろ)
豪族 = 田荘(たどころ) → 部曲(かきべ)

[ 北大構内遺跡 ]

北海道

擦文(土器)時代: (8)9-13(15-16) c (考古学: 古墳時代に含むこと多)
擦文文化
刷毛目ついた土器特徴 + (石器殆ど用いられなくなる → 鉄器)
全道的均一文化。続縄文文化が本州土師器を伴う文化の影響を受け成立
集落多大規模化 Ex. 住居竪穴式でほぼ正方形 + 炉・釜戸分かれる
1981-1982 恵迪寮建設予定地発掘調査 - 擦文文化集落址

竪穴住居址5基、土杭6基
須恵器・環状鉄製品・刀子・コメ → 内地から輸入
刻書土器 - 「」の文字

起源(2つの説): 「夷」 = 北海道(蝦夷) vs 「奉」 = 奉る(供献する)

奈良時代


710 平城京(奈良)遷都, 現在の奈良
712 古事記
718 養老律令 (757 施行): 藤原不比等ら
719 按察使
720 日本書紀
723 聖武天皇: 三世一身の法制定 → 土地の一部私有認める
724 多賀城 (陸奥国)
729 長屋王自殺
735 凶作
735, 737 天然痘流行

→ 藤原四兄弟 (藤原房前, 藤原麻呂, 藤原武智麻呂, 藤原宇合)没

743 聖武天皇: 墾田永年私財法制定 → 土地永遠私有認め公地公民崩れる
757 橋奈良麻呂の変
759 唐招提寺建立
759 桃生城・雄勝城築城

飛鳥・奈良時代の宮都変遷
飛鳥
592 飛鳥豊浦宮 (推古)
603 飛鳥小墾田宮 (推古)
630 飛鳥岡本宮 (舒明)
636 飛鳥田中宮 (舒明)
640 百済宮 (舒明)
643 飛鳥板蓋宮 (皇極)
645 難波長柄豊碕宮 (孝徳)
655 飛鳥板蓋急 (斉明)
655 後飛鳥岡本宮 (斉明)
667 近江大津宮 (天智)
672 飛鳥浄御原宮 (天武)
694 藤原京 (持統)
____中国に倣う初の都
奈良
710 平城京 (元明)
740 山背恭仁京 (聖武)
742 近江紫香楽離宮 (聖武)
744 難波京 (聖武)
744 紫香楽宮 (聖武)
745 平城京 (聖武)
784 長岡京 (桓武)
794 平安京 (桓武)

北海道

北海道(エミシ)関連記載: 恐ろしくかつ畏敬すべき存在
「エミシを一人百な人、人は云へども抵抗(たむかい)もせず」(神武紀・即位前紀)

エミシは一人で100人を相手にする強さ → 戦うとそうでもなかった

Okhotsk
環オホーツク海古代文化の研究(菊池 2004)

9世紀中: 災害・飢饉
神田明神 (Kanda Shrine)
【ご祭神】
一の宮 大己貴命(だいこく様) おおなむちのみこと 天平二年創祀
二の宮 少彦名命(えびす様) すくなひこなのみこと 明治七年奉祀
三の宮 平将門命(まさかど様) たいらのまさかどのみこと 延慶二年奉祀
 平将門命は、除災厄除の神様。東国の悪政に苦しむ庶民たちを自らの命を投げうって守ったお方で、江戸っ子の神として崇敬されてまいりました。

2014-05-30 神田明神

蝦夷

749: 聖武天皇の頃: 平城京は盧舎那仏外形仕上げ残す – 膨大な金必要
日本: 金採掘技術なし → 中国輸入依存 → 陸奥守百済王敬福が金献上(日本初産金)
聖武天皇は驚嘆し自らを「三宝の奴」(仏様の僕)と称す
大伴家持「海行かば 水漬く屍山行かば 草むす屍 大王の辺にこそ死なめ かえりみはせじ」の1節を含む長歌を詠み3首返歌を添えた

→ 1首「大王の みよさかえむと 東なる 陸奥の山に くがねはなさく」

752: 大仏開眼 → 以降陸奥から金採掘
採掘中心 = 国司百済王敬福ら朝鮮系渡来人(?)。運搬担当= 丸子氏(後の牡鹿連道嶋氏)(?)
道嶋氏: 現石巻市周辺豪族
道嶋嶋足: 「橘奈良麻呂の乱」「恵美押勝の乱」で坂上田村麻呂の父刈田麻呂と共に武功あげ出世
金採掘に技術者・労働力に罪人・流浪人 = 陸奥流入 → 製鉄技術優れた「俘囚」を全国各地に配置
Def. 俘囚: 朝廷に従う捕虜・蝦夷 → 時代下ると陸奥北部地方に住む人
Def. 荒蝦夷: 朝廷に従わない蝦夷 ↔ 熟蝦夷: 朝廷に従う蝦夷
Def. 田夷: 農耕を主とする蝦夷 ↔ 山夷: 狩猟や精錬技術を持った蝦夷

時代により「夷狄」「夷俘」等呼称 /「蝦夷」(エゾ)と区別しエミシと読む

中央: 藤原仲麻呂(恵美押勝) → 絶大勢力 → 子の朝猟は鎮守府将軍とし多賀城に就く
767 伊冶城築城(更に北) → 蝦夷側に不穏な空気
774: 蝦夷宇漢迷公宇屈波宇(うかんめのきみうくはう)等反旗翻し一族率い柵から逃げ還る

使者にも戻ろうとせず、「一、二の同族を率い城柵を侵さん」と言い放つ
牡鹿連道嶋嶋足を派遣検問 → 「俘囚」叛乱の意判明 → 海道(気仙地方)の蝦夷が桃生城を襲撃

774-802: 田村麻呂が蝦夷平定

(→ 802 胆沢城築くまで約30年間、朝廷 vs 蝦夷)
蝦夷叛乱に呼応し奥羽北部で内乱 → 出羽から軍発し平定試みる
主戦力は俘囚地元民(俘軍): 戦功者位階授かる

Ex. 外従五位下: 吉弥候伊佐西古(きみこいさしこ)、伊冶公呰麻呂(これはるのきみあざまろ) ("外" = 外国人)
Ex. 正四位上: 牡鹿連道嶋嶋足 = 恵美押勝の乱の戦功 (異例)

多賀城北に桃生城、伊冶城築城後、更に北地の覚べつ城造るため、陸奥守兼按察使紀広純は奏上し勅が下り、覚べつ城造営計画上がる(覚べつ城位置は、伊冶城北が有力)

780 伊冶公呰麻呂の乱

覚べつ城造成に伊冶城へ多賀城首脳が集結した日に伊冶公呰麻呂叛乱
伊冶城に滞在した紀広純等殺害。1人陸奥介大伴真綱を囲いの一角を開き多賀城に送った。数日後、多賀城に「俘軍」攻め入り火を放つ(多賀城跡から焼瓦発掘 = 証拠?)
叛乱理由: 同僚の道嶋大楯(道嶋嶋足一族?)に俘囚と侮辱 + 覚べつ城造営に呰麻呂本拠地、栗原の民を動員 等 → 老天皇(光仁天皇)動揺 → 山部親王、桓武天皇譲位 → 鎮定に数度軍派遣 → 戦果乏 → 軍解散

784 大伴家持(征東将軍): 高齢「海行かば-」歌同様、辺境陸奥で死去

死後、謀反の罪に連座し「死体に鞭打」たれ、貴人が死ぬと薨ずと記されるが家持は「死」と記される

789 巣伏の戦: 阿弖流為(アルテイ) (アイヌ民族指導者)勝利

桓武天皇時代 = 蝦夷征討体制整備 → 紀古佐美を征東大使に任命
蝦夷本拠地胆沢・江刺中心とする北上盆地南部進軍 → 衣川を渡った3箇所に逗留
→ 約1ヵ月間軍動きない → 桓武天皇は進軍催促 → 3軍52800余人中4000の部隊が渡河進攻開始
官軍は北上川両岸二手に分かれ北上 → 蝦夷本拠地で合流し蝦夷軍を挟撃する手筈

アルテイ住居に至り300人の蝦夷迎撃後に退却 → 官軍は蝦夷人家焼きつつ北上

巣伏村に入り前軍と合流直前、前軍は蝦夷軍に囲まれ2000の兵渡河不可 + 中軍・後軍前に800人の蝦夷軍現れ衝突 → 軍が南退却時、東山から400人蝦夷軍現れ官軍退路断つ
初めの300兵は奥地への誘導囮  官軍が逆に蝦夷軍に挟撃され、官軍5人の軍鑑戦死 退路失い兵は川に逃れ、戦死25人、負傷245人、溺死1034人、泳ぎ来る者1257人 = 4000の大軍擁し1500の蝦夷に潰走
蝦夷側損失 = 焼失村落14村800戸(50戸1郷とし16郷。戦況報告の割増を引いても10郷程度焼かれた)

「巣伏の戦い」敗北軍鑑制裁: 紀古佐美は功に免じ不問。坂東出身鎮守副将軍安倍媛嶋臣墨縄が官位剥奪斬刑以外、殆どない。墨縄と同じ副将軍の入間広成、池田真枚は、広成は言及されず、真枚は溺れかけた兵を助けた功により解官のみ。この敗北により、桓武天皇は軍事改革に乗り出す

790: 駿河以東諸国に革甲2000領を造ること命ず + 征夷軍粮として糒14万斛の乾備命じる
791: 百済王俊哲、坂上田村麻呂が東海道に、藤原真鷲が東山道に軍師の簡閲と戎具の点検

これ以降も幾度となく武具点検と軍粮備蓄を促す勅命出される

791: 征東大使に大伴弟麻呂、征東副使に百済王俊哲、坂上田村麻呂、多冶比浜成、巨勢野足等を任命

→ 陸奥蝦夷に動揺 → 10万の大軍を擁する朝廷に投降する蝦夷と、抗戦し続ける蝦夷に別れる
朝廷は投降蝦夷に官位等を与える懐柔策と、抵抗蝦夷に大軍を用い衝突する、「飴と鞭」の対応

792: 征夷大将軍大伴弟麻呂: 節刀天皇から賜る

→ 斬首457級, 捕虜150人, 獲馬85疋, 焼落75処戦果上奏

802 胆沢城造営: 蝦夷本拠地胆沢 → 既存城柵と異なる性質

多賀城、桃生城、伊冶城: 丘陵地上建設 = 戦専用
胆沢城: 平地に建設 = 戦略基地 + 農業技術開発 (Ex. 跡地から田跡 → 稲改良)

802: 阿弖流為、母體等500人の蝦夷投降 = 胆沢地方蝦夷叛乱終焉

500人は兵力のみで「巣伏の戦い」の半分の戦力で、十分抵抗し得た
阿弖流為、母禮は田村麻呂と都へ → 田村麻呂助命請うが「虎の子を野に放つも同じ」 → 難波杜山で斬首

803: 胆沢城の北に志波城造営 → 蝦夷30年戦争終結
811: 征夷大将軍坂上田村麻呂後継文屋綿麻呂

爾薩体、幣伊征討。朝廷支配地域は現岩手県北部まで
朝廷勢力と共に仏教文化伝わる。東北各地に平安初期作仏像が伝わるが、仏像は蝦夷を写したのか、荒々しく力強いものが多い。また、田村麻呂を讃称する、北方鎮守の毘沙門天が多く造られる


万葉集 (The Anthology of Myriad Leaves)

7世紀後半-8世紀後半編纂 = 日本現存最古の和歌集 (4500首以上)
万葉集に見られる植物
山上憶良 巻八1538: 秋の七草 (↔ 春の七草)
萩の花 尾花 くず花 なでしこの花 また藤袴 朝顔の花
鴨君足人(かものきみたるひと)
何時(いつ)の間(ま)も 神(かむ)さびけるか 香具山(かぐやま)の
鉾椙(ほこすぎ)が本(もと)に (こけ)生(む)すまでに
大友家持 717-785没
霍公鳥 來鳴く五月に (中略) 見が欲し御面 直向ひ 見む時までは ···
ホトトギスが来て鳴く五月に (中略) 見たいと思うあなたのお顔を、じかに向かってみる時までは ···

かへ = カヤ (Torreya nucifera (L.) Siebold et Zucc.)

柿本人麻呂
古(いにしへ)に ありけむ人(ひと)も わが如(ごと)か
三輪(みわ)の檜原(ひばら)に 挿頭(かざし)折(お)りけむ

檜原 = ヒノキ (Chamaecyparis obtusa (Siebold et Zucc.) Endl.)

大伴家持
皇祖神の 遠御代御代は い敷き折り 酒飲むといふそ このほほ柏

ほほ柏 = ホオノキ (Magnolia obovata Thunb.)

大大伴旅人 (664-731)
吾妹子が 見し鞆の浦の むろの木は 常世にあれど 見し人そなき
吾妹子の見た鞆の浦のむろの木は、今も変わらずにあるが、これを見た吾妹子は今はいない

むろの木 = ネズ (Juniperus rigida Siebold et Zucc.)

大伴坂上郎女 伝未詳
ひさかたの 天の原より 生まれ來たる
神の命 奥山の 賢木の枝に
しらかつけ 木綿とりつけて ···
高天原よりお生まれになった祖先の神よ、奥山の榊の枝に真っ白い木綿をとりつけ ···

榊 = サカキ (Eurya japonica Thunb.)

平安時代 (794-1185)


区分の目安
前期 (794-893): 平安京-天皇親政 (桓武天皇)
中期 (894-1155): 摂関家-国風文化 (藤原道長)
後期 (1156-1185): 院政-武士 (平清盛, 源義朝・頼朝)
794 平安京(京都)遷都: 桓武天皇が現在の京都に遷都
805 最澄 = 天台宗
806 空海 = 真言宗
810 薬子(くすこ)の変: 平常上皇・藤原仲成・薬子 vs 嵯峨天皇・藤原冬嗣

→ 藤原仲成射殺

842 承和の変
866 応天門の変
866 藤原良房 = 摂政 - 最初の摂政
887 安衡事件(安衡の紛議)
887 藤原基経 = 関白 - 最初の関白 = 摂関政治

摂関政治確立4条件 = 他氏排斥 + 高位独占 + 荘園集積 + 外戚政策

集落
荘園集落: 平安-室町 → 貴族・寺社等私有地を中心に発達

荘園中心農民である名主の屋敷を中心に形成 (現、別所・別府・領家等の名がつく地名は名残)

豪族屋敷村: 中世 → 地方豪族屋敷を中心にできた東北地方に多い集落

堀や土塁等の防護施設を持つ

隠田集落: 中世以降 → 落武者が人里離れた山間地に隠れ住む

孤立した集落 (+ 租税逃れ)

北海道

オホーツク文化
(8)9-(11)13 c: [擦文文化とほぼ並行] 石器 + 鉄器・青銅器
北方オホーツク海域(千島列島、サハリン、アムール川流域)を結ぶ広域文化圏繁栄

高度な金属器を伴う漁労・狩猟文化。アイヌ民族 / アジア大陸北東部起源外来民族(説)

網走川河口モヨロ貝塚遺跡(網走市)
オホーツク文化(最大遺跡)

貝塚担手(推定) = アイヌ文化興隆以前、サハリン拠点のニブフ民族(ギリヤーク族)?
住居: 大型五角形竪穴式で数家族同居。海獣狩猟・解体・油作り等で多人数の協力のため?
海獣骨・牙を彫った動物像や細い優雅な線文様土器、海獣油を入れたオホーツク土器等。青銅鈴・鐸・帯飾は8-9世紀に中国東北地方に勢力拡大した靺鞨(まっかつ)族長シンボルで、異国風デザインは絹や金属製品と毛皮や油、魚介や昆布等を交換した古代冒険商人の息吹伝える

→ 後に擦文文化に同化

935-941 承平・天慶の乱

= 平将門の乱 + 藤原純友の乱 → 朝廷震撼
935-940 平将門の乱
関東武士団萌芽: 10c 桓武天皇系平氏と清和天皇系源氏が武士団頭領
935(承平5): 野本合戦 - 源護の息子(源扶・源隆・源繁)ら将門に討たれる

伯父国香は源扶らに味方 → 将門に敗れ落命
10 川曲(カワワ)村(八千代町)の戦い: 将門は叔父平良正(源護娘婿)と戦い破る

936(承平6).6 将門は良兼・良正・貞盛(伯父国香の子)らと下野国国府近くで戦い破る

9 承平5年の事件を源護が朝廷に訴え将門に召喚状来る
10 将門: 弁明に上洛 → 軽刑(以前仕えた藤原忠平が太政大臣のため?)

937(承平7).4 朱雀天皇元服の大赦 → 帰国
937.8 将門: 子飼の渡(子貝川)で良兼・良正・貞盛らに敗北

→ 良兼軍は将門根拠地豊田郡栗栖院常羽御厩襲撃
将門、復讐決意し堀越の渡(八千代町)で合戦 → 将門、脚病となり敗退 → 将門妻子捕まり殺される

937.10 将門、良兼の服織の館襲撃 → 良兼軍は敗れ、筑波山中の弓袋山に逃げ込む
937.11 板東諸国に良兼・貞盛・源護らに追捕の管符 (常羽御厩放火事件に対する処罰)
937.12 良兼が八十余騎で石井(イワイ)営所を夜襲 → 将門が撃退
938(承平8).2 朝廷権威を借りようと上洛目指す貞盛を将門は信濃国国分寺まで追うが貞盛逃れる(千曲川の合戦) → 貞盛、将門を朝廷に訴える

938.2 隣国武蔵国に権守興世(オキヨ)王と介源経基(清和源氏の祖)赴任
税徴収の件で、元々いる豪族郡司武蔵武芝と興世王・源経基とが対立

939(天慶2).2 将門調停介入 → 成功 = 武蔵武芝と興世王が手打ちの盃 → 源経基と武芝の兵衝突

→ 源経基が将門と興世王が謀反計画と朝廷に訴える
5 百済王貞連: 武蔵守として赴任 → 貞連と興世王とが不仲
6 良兼病没。貞盛が将門追討の官符持ち帰国(帰国後国府に匿われる?)。常陸で国守常陸介藤原維幾と藤原玄明が対立中。興世王、ついで藤原玄明(官物私物化で逮捕状?)が将門を頼る
常陸介藤原維幾(コレチカ)が玄明引渡要求
11 将門: 藤原玄明追討しないことを要求し?、常陸国に出兵し常陸国府に乱入 = 国家反逆
12 将門: 下野国・上野国国府を襲い占拠。国守を碓氷から信濃へ追放
上野で諸国除目行い「新皇」と称する + 弟や従類を板東八か国国司に任命
将門: 太政大臣藤原忠平に上申書を送り謀反事情を述べる。朝廷は藤原忠文を征東大将軍に任命し征討軍派遣決める

940(天慶3).1 将門: 常陸進軍。将門追討命令。下野押領使藤原秀郷・平貞盛ら下野国で将門追討挙兵

2 将門: 討伐向かうが下野で藤原秀郷・平貞盛軍に敗れる → 2.13 下総国まで逃亡
→ 2.14 猿島郡北山の戦で将門戦死 → 4 将門の首京に送られる

朝廷: 私闘には曖昧な態様だが、国家機関国府襲撃後の討伐軍編成は素早く律令機能
将門の板東一帯占拠が2月なのは武士勢力未成熟が一因
乱後、平家・源氏武士集団成熟 ? 関東中心に争乱が続く間、奥州は平和
939 藤原純友の乱
瀬戸内の乱
1019 刀伊の入冠: 九州武士
1028-1031 平忠常の乱: 東国源氏と平氏勢力が入替わる

前九年の役・後三年の役

前九年の役: 1056(天喜4).8.3-1063(康平6).2.27
東北地方の乱 - 朝廷(源氏)と俘囚(安倍氏)の戦い → 源氏勝利
久利川事件: 陸奥守に源頼義着任後、俘囚長安倍頼時は恭順の意
1056 (源頼義任期最終年)

鎮守府将軍 源頼義は、交代庶務のため胆沢城に赴く →
数10日間滞在 国府への帰路 → 阿久利川近くで権守藤原説貞子息の野宿が襲われ人馬が殺傷された
→ 藤原説貞主張: 犯人 = 安倍頼時子息の安倍貞任
→ 源頼義: 貞任処罰しようとしたが頼時は貞任を庇い衣川関閉ざす → 安倍氏追討大軍派遣

源頼義任期僅 → 戦は源頼義帰任後なら好都合 (源頼義が自らの貴族社会中での地歩固めに好都合な事件 → 武門棟梁として奥州を自らの版図中に入れれば地盤固まる ↔ 安倍頼時がこの時点で叛意を抱く根拠薄く、阿久利川事件は源氏自作自演の可能性高い
源頼義: 安倍頼時女婿の平永衡を、安倍氏内通の疑いで謀殺

→ 藤原経清自身、安倍頼時女婿で、身の危険を感じ流言放ち源頼義軍を国府に引き帰らせ、私兵800人を率い安倍氏側に走り、源頼義は安倍氏への先制攻撃好機失う
源頼義任期終了 → 陸奥守藤原良綱は合戦の報を聞き後任辞退 →

1056.12.29 源頼義 再度陸奥守

気仙郡司 金為時(こんためとき)、下毛野興重(しもつけのおきしげ)ら遣わし奥地俘囚を味方に、背後から安倍氏攻撃目論む
天喜5.7.26: 安倍頼時自ら説得に赴くが伏兵の矢に倒れ鳥海册に帰り死亡
→ 貞任・宗任兄弟ら安倍氏結束は固く徹底抗戦の構え

1057.11 黄海で源頼義と安倍貞任が戦い頼義大敗

敗戦後、頼義は安倍氏攻撃力失い奥州で安倍氏が跳梁し前九年の役は長期戦の様相
源頼義は、膠着打破のため出羽国俘囚長清原氏に甘言をもち援軍依頼

1062. 5.7 頼義に応じ清原武則は一万余の兵を率い頼義軍と合流 - 戦局変化
1062. 9.7 安倍氏最後の砦、厨川柵陥落し貞任戦死。藤原経捕まり斬首。宗任投降
1063.2.27 奥州合戦戦功への除目

源頼義正四位下伊予守 / 長男源義家は従五位下出羽守 / 次男源義綱は左衛門尉
清原武則は従五位下鎮守府将軍 – 在地豪族の任官は破格

↑ 戦闘期間 ≠ 9年
1069 後三条天皇が荘園整理始める - 藤原氏没落

後三年の役: 1083(永保3).9-1087(寛治1)12.26
東北地方の乱(清原家衡・清原武衡、藤原清衡、源義家)
清原氏の内訌に源義家介入 → 義家は奥州覇権握れず、藤原清衡がこの役の最終勝利者
清原武則: 鎮守府将軍(従五位上相当官)。安倍氏旧領も支配し奥州に強大勢力圏形成
清原真衡(武則の孫)は海道小太郎成衡を養子にした。成衡が妻迎え、祝に清原一族長老吉彦秀武も駆けつけた(秀武は前九年の役で第三陣押領使)
秀武は真衡に金献上しようとしたが真衡は奈良法師と囲碁に熱中し無視 → 秀武は屈辱で領国出羽に帰る
単独では真衡に抗し難い秀武は、真衡異母弟の清原家衡・異父弟藤原清衡誘い込み、真衡背後を突かせようとした。真衡に反感抱く家衡らは誘いに乗り、真衡留守宅を攻め、真衡が館に引き返すと家衡らは真衡と直接戦うことを恐れ逃げ去った
1083秋: 源義家が陸奥守赴任 → 真衡が本拠防備固め、再び秀武討伐に向かう時点

真衡は礼を尽くし、新司への饗応をすませ出羽出陣
家衡・清衡ら、再び真衡の館攻撃 → 館近くにいた義家郎党が請われるまま真衡の妻に加勢 → 家衡らは撃退され、義家も清原氏の内訌に加わる → 真衡急死し、家衡らも義家に降伏し終戦 → 義家は家衡・清衡に真衡の遺領を分与
義家に取り入った清衡に対し、遺領配分不満とした家衡は、清衡の館を襲い妻子ら殺害
応徳3年秋: 義家は清衡助け数千騎の兵を率い家衡の拠る沼柵攻撃

沼柵防備固く数ヶ月の包囲戦で糧食欠乏 + 大雪凍死者続出 → 義家撤兵決断
家衡は来援した叔父清原武衡の勧めで、要害の地の金沢柵に移る

翌寛治元年9: 戦備整え来攻した義家軍と戦闘突入。今度も家衡・武衡抵抗強く、兄苦戦を聞いた義家弟の源義光(朝廷許可得ず来援 → 左兵衛尉官解任)が京都から来援し力を得た義家が総攻撃開始

11.14 金沢柵陥落、家衡・武衡討伐に成功
12.26 後三年の役平定した陸奥守源義家から、清原武衡・家衡追討報告届く

朝廷は源義家私戦とし恩賞無し = × 清原氏朝廷反抗, O 清原氏の内訌
源義家は合力した郎党・家人に私財をあて恩賞 → 彼の名不動
(↔ 無ければ、子孫源頼朝が挙兵しても関東武者は従わなかったか)

朝廷が源義家に恩賞を与えないもう1つの理由 = 彼の名声高まり諸国から荘園寄進相次ぎ、新たなる権門になることを上流貴族が恐れた。武士は貴族から見れば侍身分に過ぎず利用価値しかなかった。それが自分達と同じ権門に成り上がることは容認できず、源義家に恩賞を与えず彼の力を削ごうとした
1086 白河上皇: 院政開始 - 実権が院に移る

保元・平治の乱

保元の乱
1156.7月(保元元年): 朝廷が後白河天皇方と崇徳上皇方に分裂し武力衝突
後白河天皇 vs 崇徳上皇 + 摂関家内: 藤原忠通(天皇) vs 藤原頼長(上皇)
天皇方 = 平清盛や源義朝 vs 上皇方 = 平忠正、源頼義・為朝親子

天皇方勝利 → 崇徳上皇 隠岐流刑 + 平忠正・源為義 斬首刑 + 為朝幼少理由に伊豆配流
(810年薬子の変以来346年ぶり死刑復活)

1159 (平治元) 平治の乱
源義朝 vs 平清盛 → 清盛勝利 → 政権武士階級に移る

乱の後、平清盛と源義朝は対立 + 院政敷かれ上皇臣下である院の近臣内部でも対立発生
1159: 清盛が熊野詣時に、義朝は藤原信頼と挙兵し三条殿を襲い後白河上皇を内裏に移す。清盛が急遽帰京し反撃開始し、源氏方崩壊。上皇と二条天皇は内裏脱出、義朝・頼信は敗死 → 政権平氏に移る

1167 平清盛: 太政大臣 → 武士初の太政大臣
1185 平氏滅亡: 壇ノ浦の戦いを最後に滅亡
1185 源頼朝: 守護・地頭設置 - 征夷大将軍になる前

中世 (middle ages)


鎌倉 (1185-1333)


1192 鎌倉幕府: 源頼朝 = 征夷大将軍 - 武士時代開始
1219 北条氏 執権政治確立: 実権は将軍でなく執権に
1221 承久の乱: 後鳥羽上皇破れる → 京都に六波羅探題 = 朝廷監視

布引の たきのしらいと うちはへて たれ山かぜにほすらむ
蛍とぶ あしやの浦の あまのたく 一夜もはれぬ 五月雨のそら
 後鳥羽院(治承4-延応元, 1130-1239)、第82代の天皇。歴代天皇の仲で和歌に最も熱心な方であり新古今集の業にはその第一線にたたれ撰者たちを指揮された。即ち新古今集は院の親撰である。鎌倉幕府妥当の事ならず置きに配流の身となられたが、遠島においても専ら和歌に心をよせられ、王者の風格と気品にみちた詠草をのこされている。この2首共に最勝四天王障子和歌で布引の滝と芦屋の里を題としたものである。(2019年3月16日)

1232 御成敗式目: 北条泰時制定 = 武家初の法律
1239 人身売買禁止

1268 (文永5).1-1281(弘安4) 閏7.1文永・弘安の役

元による二度の侵略戦争
1268.1 元使来朝: 蒙古使国的、高麗使潘阜が蒙古厳命受け、国書携え大宰府到着
1268.閏1上旬 通商求める蒙古国書が幕府に届く
1268.2.6 幕府は国書を京都に伝奏し後嵯峨上皇上覧に供した

朝廷: 国書受理拒否 + 軍事力なく神頼み → 3.5 石清水八幡宮、3.23 東寺で敵国降伏祈祷
祈祷作戦: 文永・弘安の役を経て事態沈静まで続き、洛中動揺大

蒙古軍侵入地点 = 北九州沿岸限定 → 幕府下知に応じた九州御家人が陣構え防衛
京都で戦乱危惧ないがパニック状態は事件余波による食料不足一因

幕府は北九州・山陰沿岸警備と兵糧米調達に、鎮西九国と山陰四国に年貢上納中止を、国衙・荘園・本所・領家等の得分差し押さえを発令

→ 京都搬送年貢米抑留: 八幡愚童訓(石清水八幡宮神官著)「蒙古乱入セズトモ、此ノ飢渇ニハ死ヌベシ」
1273(文永10)1: 元使、趙良弼が日本国王及び大将軍との謁見要求

要求叶えないなら我が首を取れと強硬 → 約1年滞在、得ることなく帰国

1274 元冠(文永の役)
第1回元寇。対馬・壱岐・北九州 - 元軍兵は侵略戦争従軍し戦い慣れ精強
1274.10.19 対馬海峡を渡った元・高麗連合軍は博多湾沖合集結完了
1274.10.20 早朝一斉上陸開始 - 主力元軍二万は箱崎・博多方面。助攻の高麗軍は西方佐原(麁原)
日本軍: 筑前守護で大将少弐景資が本拠を箱崎に置き、西方に約1万の九州勢が陣を構え、来寇待つ
午前10時頃 両軍接触 → 慣習差 → 日本軍混乱

Ex. 戦闘開始前に鏑矢を射て名乗あげる日本独特習慣なく、名乗中討死武士続出
Ex. 元軍武器: 短弓(飛び毒矢尻で殺傷力強) + てつほう(鉄炮)(大砲?) → 火薬知らない日本勢は炸裂時の轟音と閃光のため槍を合わす前から陣中大混乱

日本軍: 夕方には全軍水城の城に逃げ籠もる。本陣の箱崎方面は敵占領下 → 軍神を祀る箱崎八幡宮も焼け落ちた。元軍は夜に軍船に引き上げ、夜に博多湾を大風襲い死者13500余人の壊滅的打撃 → 一夜あけ日本軍事実知る

神風(台風) + 元軍急造船粗末 = 現群敗戦理由

幕府反攻計画: 健治元年末、来年春頃の異国征伐準備をせよ、の幕命に西国御家人達は我が目を疑う
  1. 出征要員 = 御家人主体 + 九州在住非御家人武士
  2. 船舶、舵取、水手(乗組員) = 九州一円から徴発 + 不足は山陰・山陽から適宜補充
  3. 出陣者には、博多湾岸の石塁築造の負担を免除
  4. 外征軍の総大将は少弐経資
  5. 出陣基地は博多
 異国征伐仮想敵国は高麗?: 元再襲来ありとし御家人戦意昂揚が狙いか、元を逃げた来朝中国人禅僧の勧誘で外征を考えた。計画は翌年3月頃まで推進され立ち消えた(経緯未詳、御家人の協力がなかった?)
1275(文永12)4.15 元使斬殺

フビライ帝: 交渉余地ありとし礼部次郎(文部次官)杜世忠ら日本派遣 → 長門国室津(山口県豊浦町)到着
大宰府は元使一行止め置き、鎌倉に急を報じ幕府指示仰ぐ
3ヶ月余後、元使一行は鎌倉に護送 → 9.4 執権北条時宗は杜世忠らを滝ノ口の刑場で斬首(元に対する決意表明)。斬首は随行の高麗人含め計5人、その首は刑場に晒された

1281 元冠(弘安の役)
第2回元寇 → 壱岐・筑紫 - 神風
1274年敗北以来、元の世祖(フビライ・ハン)は再征準備継続
制収日本行中書省(征東行省)創設: 日本征服のみが目的の軍政機関

世祖の狙い: 日本征服 + 属領化
軍船団に農耕用「鋤」「鍬」「種籾」等積み込み、屯田兵駐留を準備
Ex. 1281(弘安4).1: 動員令発布時「人民を皆殺しにしては土地が用をなさなくなる」と出征諸兵訓戒

日本遠征2軍 = 東路軍(モンゴル・高麗兵主体動員総数4万) + 江南軍(蛮子兵10万)

= 両軍総数は前回の5倍 → 輸送軍船4400余隻

両軍別々に進発 → 6.15に壱岐国(平戸に変更)合流予定
東路軍: 予定通り進発し、高麗合浦で高麗王閲兵受けた後、6月始め博多湾の志賀島等を襲う
江南軍: 総司令官阿刺罕が重病 → 出発遅れ6月下旬に先発隊が平戸到着
東路・江南両軍合流時は7月下旬 → 両軍集結地は、伊万里湾口鷹島
本格的日本攻略戦展開矢先の閏7月1日夜、大風吹き荒れ、元軍は戦前に大損害負い合浦に逃げ帰る
元軍は日本軍の残敵掃討犠牲者も含め推定7-8割失う
元寇 → 日本国内政情・体制に影響 → 幕府支配権が大幅拡大浸透

幕府は戦争指揮の名のもと荘園・国衙領、寺社等に強権発動 → 実績を既得権として取り込む
西国方面外様守護を一門の者と交代等 → 北条氏一門の権力基盤強化

神風 kamikaze or divine wind: 国難に朝廷は神社仏閣に敵国降伏祈祷のみ → 大風は神仏加護 = 神国意識高揚
勘解由小路兼仲(公卿)は、「勘仲記」中に「大風は神のおこしたもうた神風」
叡尊(西大寺僧, 生菩薩): 大風神風説に最も功
1267(文永4).7: 叡尊は勅命受け京都奈良の僧500余人と石清水八幡宮に籠もり怨敵退散祈願

満願の日、石清水の山で鳴動雷鳴 → 西方に飛翔し叡尊が所持する受染明王鏑矢も西を指し飛ぶ
見聞者: 奇瑞に感嘆 → 半月後の大宰府報告 → 大雨は奇瑞が生じた刻限とし叡尊の祈りが石清水八幡神に届き神慮が大風となり顕現と考える

フビライ日本侵攻理由
第1次遠征(文永の役) = 南宋孤立目的
第2次遠征 = 南宋滅亡後の侵攻 → 元は1279年に南宋滅ぼし実質中国統一
  1. 日本は産金国(東方見聞録)
  2. 文永の役の弔い合戦
  3. 日本属領化
南宋領土 + 南宋軍十万人を手に入れた。外国侵略に利用可能な戦力だが忠誠は疑問。その旧南宋軍を日本侵攻軍とした。勝てば良、負けたら危険な旧南宋軍処理となり、自らに損害なし
第3次遠征計画: 日本遠征諦めず戦船建造・遠征軍動員命じる
戦争準備に江南・高麗疲弊 → モンゴル思考では反抗性ある勢力弱め好都合
広東・福建で反乱 → 鎮圧に日本遠征に編成された軍隊転用
1284: ベトナム占城で反乱: 阿塔海鎮圧も日本遠征軍隊(この時も暴風撤退)

交趾(北ベトナム)も叛乱 + モンゴル皇室内に内訌 → 日本遠征無理
死前年まで諦めず、使者斬首に対しモンゴルの復讐の掟に従おうとした

1297 徳政令(幕府): 御家人救う → 社会混乱し鎌倉幕府滅亡へ
1321 院生廃止 → 後醍醐天皇(大覚寺統出身)
1324 正中の乱(変): 後醍醐天皇の倒幕計画漏洩

→ 側近(日野資朝、俊基等)多数処刑

1331 元弘の乱(変): 後醍醐天皇の倒幕謀議漏洩
→ 幕軍出兵し天皇は笠置山におちる 楠木正成が河内に挙兵したが遅れ、幕軍は笠置を攻め天皇を隠岐に流し光厳天皇を擁立し践祚
鎌倉幕府は元寇で朝廷介入姿勢を強め、天皇家は親幕府派持明院統と反幕府派大覚寺統の2つに分裂
後醍醐天皇の討幕計画は悪党・海賊勢力も味方 → 天皇配流後も各地で反乱は収まらなかった
1333 鎌倉幕府滅亡: 足利尊氏・新田義貞活躍
後醍醐天皇は隠岐脱出し、伯耆の名和長年に迎えられる
鎌倉幕府は北条氏一族や有力御家人に鎮圧させたが、有力御家人の足利高氏(後の尊氏)が後醍醐天皇側につき六波羅探題滅亡し、関東武士に天皇側増え、新田義貞らの大軍が鎌倉幕府を攻め滅亡させる
北条高時一家一門自刃
1334 建武の新政(建武の中興)
公家中心天皇親政政治開始 → 天皇権力集中を目指す
後醍醐天皇、帰京し光厳天皇廃し、建武の新政を行う
↔ 戦功にみあう恩賞がない武士だけでなく旧来の公家社会からも反発を招き、改革は崩壊へと向かう
1335 中先代の乱: 北条高時の子時行が鎌倉で蜂起 → 足利尊氏が鎮圧 1336 建武の乱
北条氏反乱を契機に関東に下向した足利尊氏が後醍醐政権離反、鎌倉から西上し京都占拠
北畠顕家が奥羽の兵を率い上洛し、尊氏軍破れ、一時九州へ撤退
足利尊氏が九州から挽回し上洛、京都を占領 → 尊氏入京
南朝武将、楠木正成・千種忠顕・名和長年が次々戦死(楠木正成は兵庫湊川で防戦し破れ戦死)

北海道

先住アイヌ民族和人移入 → 鎌倉時代以降、和人移入
移住最初の記録は「吾妻鏡」: 1216年と35年の2度、強盗の類が流罪
鎌倉時代移住者 = 奥州藤原氏の残党や流罪人、漂流民等
南北朝以降移住者 = 奥州戦乱敗者や日本海を伝わり来航する商人や漁民の移住増える
アイヌ民族: 北海道、樺太、千島等を含め、自らの居住地をアイヌモシリ(人間の静かな大地)と呼ぶ
和人: 北海道を古くは渡島(わたりしま)、越(こしの)渡島(わたりしま)、12世紀以後は蝦夷ケ島(えぞがしま)、蝦夷(えぞ)ケ(が)千島(ちしま)等と呼ぶ

瑞巌寺

五大堂縁起

平安時代初期の八〇七年

坂上田村麻呂がこの島に毘沙門堂を建て、八二八年、慈覚大師が瑞巌寺の前身・松島寺を建てて、ここに五大明王を祀り、五大堂と呼ぶ王になった。現在の建物は一六〇四年、伊達政宗が紀州(和歌山県)の名工鶴衛門家次に命じて建立した。方三間の宝形造で、四方に勾欄つきの縁を巡らし、正面に向拝をつける。内部に重厚な家形厨子を置き、五大明王を安置する。有名な暮殿の彫刻など、雄健な桃山建築として、国重要文化財に指定されている。(瑞巌寺)
瑞巌寺洞窟群
元来、納骨や供養の為の施設で、造営は鎌倉時代に遡り、江戸時代まで続いた。松島は古来「奥州の高野」と呼ばれ、浄土往生を祈念する神聖な霊場であった。

松島の地名発祥の地 雄島

案内図
雄島(御島)について
 この島は諸国から松島に集まった僧侶、巡礼の人々が修行したところで、その代表とも言える見佛上人が法華経6万部を読誦した「見佛堂跡」があり、鳥羽天皇からその高徳を讃え、松の苗木本尊を下賜されたので御島と呼ばれました。
 島内に点在する岩窟はその昔、108箇所あったといわれており(現在は50あまり)岩窟の中には卒塔婆、仏像、五輪塔、法名などが彫れたり安置されたりしており、全島が霊場たったと言うことが知られています。島の南端に建つ奥州三古碑の一つ「頼賢の碑」(1307年建立・昭和30年 国指定重要文化財)はその様子を伝えています。又、雄島(御島)は古くから歌枕として和歌に詠まれました。1689年、江戸時代の俳人、松尾芭蕉も瑞巌寺に詣でた後、この島を訪れており、弟子の曽良による『松島や鶴に身をかれほととぎす』の句碑があります。このように雄島(御島)は古代から松島を代表する島なので、『松島』という地名"発祥の地"と伝えられ、島内から眺める五大堂、福浦島、双子島などはひとしお、風情があります。
頼賢の碑__• 真珠稲荷__• あずまや__• 松吟庵跡__• 座禅堂__
• 七色こだま__• 芭蕉・曽良の碑__• 見佛堂跡__• 渡月橋__• ヨットハーバー

宮城県

国指定重要文化財

奥州御島 頼賢の碑

頼賢
2016年3月21日 頼賢の碑

 この碑は、徳治2年(1307)に松島渡島妙覚庵主頼賢の徳行を後世に伝えようと弟子30名余人が雄島の南端に建てたものである。
 頼賢の碑は、中世奥州三古碑の一つと言われるものであり、板状の粘板岩の表面を上下に区画し、上欄には縦横おのおの7, 8センチに一条の界線で区切り、その中央よりやや上に梵字の阿字を大きく表わし、その右に「奥州雄島妙覚庵」、左に「頼賢庵主行賓銘井」と楷書で記してある。下欄には、縦1.68メートル、横0.97メートルに一条の界線をめぐらし、その中に18行643字の碑文が草書で刻まれている。
 また、碑の周囲には雷文と唐草文、上欄と下欄の間には、双竜の陽刻を配している。
 碑文は、松島の歴史を物語るだけでなく、鎌倉建長寺の一〇世で、唐僧の一山一寧の撰ならびに書になる草書の碑としても有名である。

南北朝 (1336-1392)


1336 南北朝分立 → 南北朝時代始まる

北朝: 京都を占領した足利尊氏は光明天皇(光厳帝の弟)を即位させ創設
南朝: 吉野山に逃れた後醍醐天皇は神器を奉じ創設

1336 建武式目制定: 足利氏による幕府政治開始宣言(実質的幕府成立) 1338 北朝攻勢: 足利尊氏は、足利氏一門を各地に派遣し諸国指揮させる

北朝-足利幕府側は南朝側に攻勢(全体的に北朝有利で情勢進む)
Ex. 畿内で高師直により北畠顕家戦死/北陸で斯波高経により新田義貞戦死

1338(暦応元) 足利尊氏北朝の光明天皇から征夷大将軍任命 → 室町幕府誕生(足利幕府名実ともに成立) → 南北朝対立 - 50年間、京都(首都)争奪戦を繰り返し戦場化

幕府初期: 足利尊氏と弟直義間で権限分担 → 実質的幕府政務は民事裁判権・所領安堵権を有した直義

直義は五山十刹制や安国寺整備等を通じ禅宗寺院を重んじる一方、武士所領拡大抑制政治行う
直義支持基盤は、鎌倉時代以来の御家人・足利氏有力一門等、鎌倉幕府的秩序維持を願う勢力
↔ 鎌倉時代に勢力ではない畿内近国武士や足利氏庶流は、高師直を筆頭に直義反対勢力形成

1338 南朝東国進出計画: 劣勢な南朝は、諸地域に皇子と有力部将を派遣し挽回策をとる

東国に義良親王・宗良親王・北畠親房・同顕信を派遣 → 船遭難 → 義良は伊勢へ戻り、宗良は遠江へ、親房は常陸へ漂着
西国に懐良親王派遣 → 派遣された南朝勢力は各地で北朝方勢力と戦う

1339 後醍醐天皇死去: 吉野で死去(吉野如意輪陵)。義良が後を継ぎ即位(後村上天皇)

尊氏: 夢国禅師の勧め → 後醍醐天皇慰霊に嵯峨に天竜寺建立
1339 神皇正統記執筆: 常陸に漂着した北畠親房は、神皇正統記を著し関東諸将に南朝参加呼びかけ
1342 五山十刹制整備: 足利直義が京都・鎌倉の禅宗寺院整備

1343 関・大宝落城: 北畠親房拠点の関・大宝両城が高師冬により落城 → 親房は吉野に戻る

南朝側は後醍醐天皇の死後も各地で反抗を続けた
関東で北畠親房が高師冬により拠点失う → 畿内中心に反撃策
1345 安国寺: 直義が国ごとに安国寺定め戦死者慰霊の利生塔建てる

1347 南朝攻勢: 吉野に復帰した北畠親房(南朝)が一大攻勢

懐良親王は熊野水軍の助けを得て九州へ → 楠木正行は畿内で奮戦し細川顕氏(直義派)破る

1348 北朝反撃: 南朝攻勢をくじいたのは高師直・師泰兄弟

→ 四条畷で正行戦死 → 南朝本拠地吉野まで攻め入り南朝存続危機 → 後村上天皇は賀名生(あのう)に逃れる
関東に続き畿内でも高一族戦功重ね、一方で直義派は戦功挙げられず、高一族の幕府内部での発言権強まり、直義派と師直派の対立表面化

1349 直義失脚

直義: 高兄弟勢力に不満 → 養子直冬を中国探題とし中国地方派遣
+ 兄尊氏に迫り高師直を執事から外す → 師直・師泰による反乱 → 直義は失脚、出家

1350 直義: 南朝に帰順 → 失脚した直義は京都脱出し南朝に降伏し帰順
1351 第一次観応擾乱

南朝支援受けた直義が尊氏・師直破り入京、尊氏と和睦し師直らを殺害
直義帰順に伴い各地の直義派将も軍事行動起こし、奥羽・関東・北陸・九州等を中心に優勢
関東上杉氏や北陸桃井氏等が上洛 → 直義派優位確定的 → 師直・師泰兄弟殺害し尊氏と和睦

1351 第二次観応擾乱

和睦続かず、直義は斯波高経・桃井直常を頼って北陸へ落ちのびる
細川顕氏・畠山国清らによる和睦交渉決裂後、直義は上杉氏の本拠地関東へ向かう
尊氏・義詮が南朝に降伏し(正平の一統)、尊氏は軍を率い関東に向かい直義勢を破り鎌倉を占領する

1352 擾乱終了: 直義-尊氏間和睦成立 → のち直義殺害

尊氏鎌倉入り直後に直義死亡 (毒殺の噂)
幕府分裂に乗じ、存亡の危機にあった南朝が京都・鎌倉を一時占拠
足利直冬・斯波高経・桃井直常・石堂義房・山名時氏等旧直義派の殆どは、南朝に降伏し尊氏・義詮と戦い、以後数度にわたり京都占領
足利氏庶流の仁木頼章・同義長・細川清氏・同頼之や新興外様守護の佐々木導誉・赤松則祐・土岐頼康は、常に尊氏・義詮側で戦い、幕政に大きな影響

1353 2度、足利直冬ら南朝軍が一時的に京都占領
1355 足利直冬らの軍が一時的に京都占領

南朝軍: 京都占領 → 北朝の崇光天皇廃止
関東: 宗良親王中心とする軍が鎌倉占領。尊氏は鎌倉を義詮は京都奪回

1356 斯波高経帰順: 直義派の武将斯波高経が幕府に帰順
1358 足利尊氏死去

足利義詮: 将軍就任 + 嫡子義詮2代将軍就任 → 細川清氏執政となり補佐

1359 北朝攻勢

関東管領 畠山国清が関東兵を連れ上洛 → 清氏と共に畿内南朝勢力に攻勢
2年前の斯波高経帰順で畿内の旧直義派攻勢弱まり、関東でも新田義宗謀殺により畿内に軍勢を回す余裕でき、清氏は関東管領畠山国清と大規模南朝征討戦を行う。作戦成功し、南朝は再び窮地

1360 仁木義長没落: 畠山国清・細川清氏ら諸将の反発 - 没落 南朝帰順

再び幕府内分裂抗争発生
前執事仁木頼章の弟の仁木義長が畠山国清・細川清氏と対立し南朝帰順を始めに、畠山国清も諸将との間が円滑でなく関東へ帰国

1361 細川清氏没落: 佐々木導誉と対立し南朝に降伏

仁木義長・細川清氏という有力部将2人が南朝へ転じた

→ 南朝攻勢: 仁木義長・細川清氏ら南朝軍が京都占領
→ 義詮が斯波高経援助受け奪回
1362 斯波義将管領就任

義詮帰京を助け戦ったのは旧直義派重鎮の斯波高経
→ 京都奪回後、4男義将を管領とし幕政実権を握る

1363 山名・大内氏帰順

高経執政期: 旧直義派有力守護山名時氏・大内弘世が幕府帰順(復帰)

1366 貞治の政変

斯波高経が佐々木導誉・興福寺と対立し没落
時氏帰順により、時氏とともに転戦していた足利直冬は九州へ没落
→ 中国四国地方の戦乱は一段落
その斯波高経も佐々木導誉と対立し没落(貞治の政変)
長年中国・四国管領として旧直義派・細川清氏他の南朝勢力と戦い戦功著しい細川頼之が後任管領

1367 足利義詮死去

→ 息子義満 = 継嗣(幼い) → 細川頼之を管領とし政務代行させた
頼之は義満の元服式を盛大に行い、義満の官位を異例の速さで進め権威高揚に務める

1368 足利義満将軍就任

応安の半済令: 大荘園領主(上級貴族や大寺社)の一円領を除いた荘園・公領を下地中分

武士権益を増やし、大荘園領主には一定保護政策
南朝勢力対抗に北朝天皇家や有力公家・寺社と宥和が目的

1369 南朝主力 楠木正儀 幕府帰順
1371 北朝攻勢

楠木正儀が南朝に攻められ支援に、頼之は弟頼元を大将とし軍勢派遣

作戦: 伊勢方面も含め大規模 → 南朝拠点天野を陥落に2年の歳月

↔ ライバル斯波義将は越中の南朝勢力桃井直常を速やかに平定 = 頼之権威に陰り

頼之支持基盤は、貞治の政変で斯波高経を追放した佐々木導誉・赤松則祐・畠山義深・一色範光・今川了俊・吉見氏頼・仁木義長ら
→ 導誉・則祐死後、頼之の支持基盤弱体化
↔ 斯波義将は山名時氏・土岐頼康・渋川義行に加え導誉の子京極高秀をも味方に引き込んで勢力強めた

1371 今川了俊: 九州派遣 →

細川頼之は了俊を九州探題として派遣し懐良親王に対抗させる

1373 天野陥落: 頼元らが南朝の拠点天野を陥落
1378 北朝攻勢: 細川頼元・業秀が和泉・紀伊に派遣されたが敗れる

頼之勢威低下を確実にしたのは、細川頼元・業秀による和泉・紀伊の南朝攻撃失敗
代わって斯波派である山名一族の氏清・義理が両国を制圧し、斯波派勢力強まる
均衡崩れる →

1379 康暦の政変

細川頼之が斯波義将らと対立しクーデターにより失脚、討伐受ける

1380 花の御所完成

京都室町に義満が大邸宅造営 → 将軍権力集中
細川頼之追放 → 斯波義将が再び管領 → 成人した将軍義満が自立的に政務を行う契機
義満は将軍直属軍である奉公衆組織し将軍権力強化図る

1385 義満 奈良春日社参詣

以後義満は各地に繰返し参詣・遊覧を行い守護大名威圧
奉公衆軍事力背景に有力守護勢力削減図る Ex. 大規模な参詣・遊覧
有力守護勢力削減 + 北朝朝廷が持つ各種権限に介入し京都の警察権・裁判権掌握

1390 土岐氏の乱

義満によって土岐氏分裂、土岐康行は反乱に追い込まれ滅ぼされる

1391 斯波義将辞職

管領斯波義将が辞職し下国
細川頼之が許され上洛、頼之の弟頼元が管領に任命された

1391 明徳の乱

義満により山名氏分裂、山名氏清・満幸は反乱に追い込まれ滅亡
管領斯波義将を中心とする山名・土岐・渋川諸氏に露骨な勢力削減策をもってのぞむ
→ 土岐・山名両氏を反乱に、管領斯波義将辞職に追い込む


史跡滝山城址
1333年には築城されていた
神戸「布引の滝」の西側
山城: 標高約300 mの尾根を利用した典型的なもの
城域: 東西600 m、南北400 m

ハイキングコースに沿った小さな平地は郭跡 (2019年3月16日散策)

Takiyama
滝山城跡: 険峻な二峰の山上に郭を展開、随所に石垣跡も残存しており、郭切岸を含めた遺構残存度が高く状態も良好。

室町 (1392-)


1392 足利義満 南北朝統一

室町幕府勢力拡大 → 南朝凋落 北畠顕能・宗良親王・懐良親王等、各地で戦闘を指揮した重鎮たち死去し戦えない
講和派の後亀山天皇に和平図られ、有力守護大内義弘の仲介により南北朝統一達成
南朝99代後亀山天皇、嵯峨大覚寺で北朝6代後小松天皇に神器譲り皇統100代 → 内乱終り南北朝統一

1404 足利義満: 明と勘合貿易(日明貿易)開始
1467 (応仁1年)-1477 応仁の乱
8代義政時、管領・守護職任命めぐり起きた勢力争い → 凄惨な戦争に発展
東軍: 細川勝元・斯波義敏・畠山長政

vs 西軍: 山名宗全・斯波義簾・畠山義就 (敗北)

→ 戦闘は御霊神社で始まり、烏丸通り境に両軍とも焼打戦法で10年間闘う
京都は連日火災、焼亡700余町3万余宇、社寺邸宅悉く焼失、戦焼死者街路に充満
西軍は、退去時に西軍陣地と京各地に放火
深草の地も戦乱の巷となり、平安以来の別荘・大寺焼失し、稲荷大社や藤森神社すら焼き払う → 歴史資料灰燼 (史学上の暗黒時代)

土一揆( =百姓一揆)

南北朝内乱・応仁の大乱等の兵乱 → 農民疲弊 + 治安不良 → 各地で一揆
京畿最多: 正長の土一揆(1428)-明応の徳政一揆(1495)まで約70年間に頻発
初めは地侍等が、不在地主的な荘園領主や幕府に権利を主張 = 「徳政一揆」
→ 農民集団暴動の「土一揆」 = 掠奪、放火 Ex. 深草の農民も活躍した記事
1428 正長の土一揆: 京畿に一揆 → 徳政要求
1441 土一揆要求 → 幕府は徳政条目定める
1447 山城の国一揆: 西岡向日神社に集合して徳政を要求し七条に放火
1454 土一揆: 東寺金堂を破壊
1457 徳政一揆: 京各所乱入
1462 京畿の土一揆: 巨魁、蓮田兵衛を誅し首曝 → 京の所々に放火
1465 土一揆: 東寺乱入
[1467-77 応仁の乱: 洛中・洛外激戦場]
1480 京都七関反対の一揆: 蜂起・略奪 + 応仁の乱で兵火を免れた諸寺焼く
1485 山城の国一揆: 畠山義就、政長の対陣に抗議 → 両軍撤退 + 自治実施
1488 加賀の一向一揆: 守護の富樫政親を自殺させる
1488 京都に一揆: 下京を焼く
1490 一揆: 北野神社にたてこもり、放火
1495 京に明応徳政一揆

1543 ポルトガル人種子島漂着 - 鉄砲伝来
1543 スペイン人平戸来訪
1549 キリスト教伝来
1560 桶狭間の戦: 織田信長が今川義元破る
1573 室町幕府滅亡: 信長が足利義昭を京都から追放
北海道
15-16c: 和人による抑圧・差別(松前藩時代): 蝦夷地移住和人増加 → アイヌ生活破壊
松前藩: 場所請負制設置

→ 18世紀以降: 場所請負人の横暴搾取 → アイヌは漁場奪われ、コタン(集落)・家庭破壊され、強制労働で酷使 → 渡党(和人)間に多くの戦い

コシャマインの戦い 1457(長禄2).5.14 コシャマイン(首長) → 東西エゾ軍が渡党エゾ(後に倭人化)居館の殆どを陥落
1456(康正2)年春 シノリ(志濃里)村で鍛冶屋によるアイヌ少年刺殺事件発生 → 東西エゾ蜂起

道南各地の館(小林良景-志濃里館、河野政通-箱館、佐藤季則-中野館、南条季継-脇本館、蒋土季直-穏内館、今泉季友-譚部館、下国定季と相原政胤-松前大館、近藤季常-禰保田館、岡部季澄-原口館、厚谷重政-比石館、下国家政-茂別館、蠣崎季繁-花沢館。12館の渡党エゾ拠点)襲撃
東西エゾ勢は茂別館・花沢館2館を残す状態の時、花沢館(上ノ国町)の武田信広(後、蠣崎氏養子。松前藩祖)策略でコシャマイン討たれ(一説6.20)敗れ、渡党エゾ軍が道南回復し戦い終結

→ 和人支配強化
16c末 蠣崎氏が苗字を松前と改め徳川家康より「黒印状」受ける → 松前藩

倭城 (当然, 朝鮮側呼称)

秀吉軍が朝鮮半島南部各地に築く日本式の城(城砦群)

Castle
倭城位置: 右軍在番, 左軍在番, 水軍在番, 釜山倭城 (本営)

文禄・慶長の役
1592-1593 文禄の役
1597-1958 慶長の役: 豊臣秀吉の死により撤退
1600 関ケ原の戦い「天下分け目の合戦」: 徳川家康 (東軍) vs 石田
Sekigahara

= 三成排除目的
家康戦法「中央に覇を唱えず」(毛利元就)
中央は信長・秀吉に任せ、自領経営と周辺部浸透に専念 = 関東一円250余万石領大名
家康: 徳川政権立てる意思は「関ケ原合戦」までない。二条城で秀頼と会見した慶長16(1611).3以降変化

1601(慶長6): 朱印船貿易を家康が始める
1603(慶長8) 2.12: 家康 従一位右大臣、征夷大将軍①

→ 江戸幕府開く(= 江戸時代)

豊臣秀頼対策 → 豊臣家臣の多くを遠隔地に転封 ↔
総計1000万余石 > 家康と譜代の計600万余石
「御所(家康)柿はひとり熟して落ちにけり、木の下に居て拾う秀頼『古人物語』」という落書があったとされる → 家康は70歳 = 焦燥

1603(慶長8).7.28: 家康 秀吉の遺言に従い7歳の孫娘千姫を11歳の秀頼に嫁がせる

近世 (early modern)


1612/13 キリスト教禁教令 → 宣教師を長崎に追放
1614(慶長19) 大坂冬の陣
1615(元和元) 大坂夏の陣

度重なる挑発 → 再戦不可避 → 大阪方再戦準備
再戦準備咎め、再び大阪城に篭る浪人を追放か秀頼が大和か伊勢への国替に応ずるか要求 → 大阪方要求拒否
1615.5.7 大阪城攻撃開始

大阪方: 篭城も城外戦できず勝目ない
真田幸村・後藤基次隊ら局所的奮戦
夕、真田隊壊滅で大阪方総崩れ、徳川方兵大阪城乱入
大阪方は秀頼の妻千姫(家康孫)を家康に送り届け秀頼・淀殿助命嘆願

5.8. 秀頼・淀殿が避難した大阪城山里曲輪糒蔵に一斉射撃加え秀頼23歳・淀殿49歳は自刃 → 豊臣家滅亡
→ 名実とも天下は家康のもの

1615 武家諸法度: 大名統制

参勤交代: 大名に余分な財貯めさせない → 謀反防止策

1615 禁中並公家諸法度
1616 徳川家康死去: 神号 = 東照大権現

1617 日光東照宮: 東照宮は徳川家康祀る (江戸時代555社、現在約300社)

徳川秀忠 ② 1605.4.16-1623.7.27 → 家康は大御所 (実質政権は持つ)
徳川光圀 (水戸黄門, 1628.7.11-1701.1.14), 常陸水戸藩第2代藩主

1657 大日本史編纂開始
水戸学の基礎作る

徳川家光 ③ 1623.7.27-1651.4.40
1637 島原の乱(島原天草一揆): 天草四郎(16歳)

籠城拠点: 原城 - 堅牢 → 幕府10万人を派兵

1639 鎖国令: 鎖国完成 - オランダ・明以外の国との交流断絶
1649 慶安の御触書: 農民衣食住細かく規定
徳川家綱 ④ 1651.8.18-1680.5.8
1657 江戸大火(振袖火事)
徳川綱吉 ⑤ 1680.8.23-1709.1.10: 文治政治推進、貨幣改悪
1687 生類あわれみの令
1690 昌平坂学問所
1709 新井白石の政治始まる: 正徳の治、貨幣改鋳、長崎貿易制限
徳川家宣 ⑥ 1709.5.1-1712.10.14
徳川家継 ⑦ 1713.4.2-1716.4.30
徳川吉宗 ⑧ 1716.8.13-1745.9.25
1716 享保の改革: 公事方御定書、足高の制、上米の制

1721 小石川薬園設置 1721 目安箱

1732 享保の大飢饉 (江戸三大飢饉: 享保・天明・天保)
餓死者12000 (各藩が幕府に少なく報告か) ↔ 「徳川実紀」969900

サツマイモ栽培普及

徳川家重 ⑨ 1745.11.2-1760.5.13
徳川家治 ⑩ 1760.5.13-1786.9.8
1772: 田沼意次老中: 株仲間公認、長崎貿易奨励、賄賂政治
1783.8.15(10時頃) 浅間山噴火 → 約1400人犠牲
1783 天明の大飢饉
主に東北地方を襲い、人口の半数が餓死する藩続出

浅間山噴火 - 天候異常(説)

家畜等を食べ、死人を食べ、人を殺し食べた例
白河藩主松平定信は、江戸から非常食を大量に送り1人の餓死者もださず飢饉を乗り切り藩政改革も成功し、幕閣達の目にとまる

→ 松平定信: 老中として改革寛政の改革を指揮

1786 寛政の改革: 老中松平定信 - 寛政異学の禁、棄捐令

a) 農村対策: 都市出稼禁じ、農村へ戻す。旅費・農具代支給。村に飢饉に備え、倉に米等備蓄(囲米)
b) 経済対策: 旗本・御家人の借金を棒引きにする(棄損令)

徳川家斉 ⑪ 1787.4.15-1837.4.2
1790 寛政異学の禁 = 朱子学のみを認める

c) 文教政策: 寛政異学の禁 → 出版・言論・思想統制
血祭りにあげられたのは、ロシアの南下のため海防を強化すべきと「海国兵談」を著した林子平等である


北海道

1669 シャクシャインの戦い
沙流-静内地方アイヌ狩猟採集場(イオル)巡る争い発端 → アイヌ vs 松前藩
→ 静内のシャクシャインが白糠-増毛間アイヌと蜂起
幕府は蜂起鎮圧厳命(津軽藩・南部藩・秋田藩にエゾ地出兵準備下命) → 津軽藩は松前藩に出兵
和睦の酒宴席上でシャクシャイン謀殺されアイヌ軍破れる → 以後1672年まで連年エゾ地へ出兵
1789 クナシリ・メナシの戦い
アイヌ民族の組織だった最後の武力抵抗
場所請負人らの横暴 → クナシリ(国後島)・メナシ(釧路以東-根室、知床半島付近)のアイヌ蜂起
松前藩に制圧される
蝦夷地調査隊派遣
1785(天明5), 1786: 蝦夷地調査隊派遣
幕府老中田沼意次
調査団: 東蝦夷地と西蝦夷地2班に別れ調査。江戸期最大の探検家の1人、最上徳内参加
発端は、工藤平助(仙台藩医師)「赤蝦夷風説考」: 「ヲロシャ(ロシア)が南下政策を取り、蝦夷(北海道、千島)は地理的にヲロシャに囲まれる。日本を窺うが、目的は侵略より交易。北方に長崎のような開港地作るべき。蝦夷地は、放置すれば(松前藩などの小藩に任せていれば)蝦夷達もヲロシャの命に従い、我国の支配を受けなくなる。後悔しても遅い。」と言う内容
最上徳内 1754(宝暦4)-1836(天保7)
出羽国村山郡の農家に誕生
江戸で経世家の本田利明門下生となる
天明5年、利明の推薦で幕府蝦夷地調査隊参加以来、度々蝦夷地・樺太・千島列島探検。観察により多くの著述を残す
晩年はアイヌ語辞典編纂する等、学究生活に専念
高田屋嘉兵衛ゴローニン事件
1796(寛政8)年夏
高田屋嘉兵衛: 箱舘(現, 函館)交易拠点港 → 1500石積大船の辰悦丸に乗船し箱舘に入る
400戸(2000人程度)と少なく開発遅れているが、天然の良港箱舘に目を付け交易拠点とし1798(寛政10)箱舘店や倉庫群を建設し活動 = 松前藩城下と港のある場所は、蝦夷襲撃時に防御しやすい
1799(寛政11): 高田屋嘉兵衛、国後島から択捉島間航路を開く
高田屋嘉兵衛: 近藤重蔵から国後島と択捉島間の急潮で、風浪や霧の強い海峡を横断する航路開設依頼を受けた。嘉兵衛は、海峡に3筋の潮流を発見し、その潮流等から70石積み(10トン程度)小船、宜温丸で国後島アトイヤ岬をで、択捉島タンネモイ(丹根萌)に至る航路開拓
1811(文化8)夏: ゴローニン(ロシア海軍少佐)
ディアナ号に乗船し、南部千島海域測量調査中、国後島で水・薪・米等を求めたところ、幕府役人に捕縛され箱舘に幽閉
1812(文化9).8
国後島泊沖で観世丸に乗船中の高田屋嘉兵衛は、ゴローニン救出活動に当たるディアナ号でゴローニンの副艦長リコルド少佐に捕らえられ、カムチャッカ半島ペテロパブロフスクに移送される
1813(文化10)
リコルドは、 人柄評価された高田屋嘉兵衛を伴いディアナ号で国後島を訪れ、高田屋嘉兵衛を介し泊村日本陣屋と交渉。更に、松前奉行と交渉する等、嘉兵衛決死の周旋により解決し、ゴローニン釈放、嘉兵衛帰国
徳川家慶 ⑫ 1837.4.2-1853.6.22
1823 シーボルト来日(長崎)
1825 外国船打払令: → 見つけ次第打ち払う命令
1831 天保の大飢饉
天候不順(多雨、大洪水、冷害) → 凶作 → 百姓一揆頻発 →
1837 大塩平八郎の乱: 幕府は処置取らず一揆・打壊し頻発

大塩平八郎 = 元幕府役人 → 幕府直轄地の大阪で乱 → 幕府動揺大 → 乱は半日で鎮圧され小規模
→ その後、各地での一揆で大塩平八郎の弟子を名乗る者が指導者となる等、大塩平八郎精神は百姓一揆指導者中に生きる

1838 天保の改革: 水野忠邦 - 株仲間解散・人返し令・上知令
1853 ペリー浦賀来航: 神奈川県浦賀沖に黒船4隻現れる
徳川家定 ⑬ 1853.11.23-1858.7.6
1854 日米和親条約締結: 下田、函館(箱館)開港
徳川家茂 ⑭ 1858.10.25-1866.7.20
1858 日米修好通商条約締結: 治外法権認め関税自主権ない不平等条約
1859 安政の大獄: 吉田松陰、橋本左内等処罰
1860 桜田門外の変: 大老井伊直弼暗殺
1860 横浜開港
1864 天狗党の乱: 水戸藩内外尊王攘夷派(天狗党)

(旧暦と新暦が混ざってるので注意)
5.2 藤田小四郎(藤田東湖四男)ら筑波山で挙兵
6月 幕府筑波勢追討令 → 7.7 諸藩連合軍と戦闘
11.16 下仁田戦争: 高崎藩兵200人と交戦
11:20 和田峠の戦い: 高島藩・松本藩兵と交戦
1865.1.14 降伏

徳川慶喜 ⑮ 1866.12.5-1867.12.12: 最後の将軍
1867.10(慶応3): 大政奉還 - 見かけ上は江戸幕府終焉

朝廷の上京召集を辞退する藩続出 → 新政権構築困難を極め、依然実権は幕府

1867.12.9 「王制復古の大号令」発布

状況打開に、薩長中心に討幕派勢力画策で発令
摂政・関白や幕府・所司代等の組織全廃し、総裁・議定・参与の三職置き新政府を組織。討幕派勢力は、これをクーデター方式で決行し、幕府・慶喜を政権から排除し慶喜に辞官・納地要求

1868(慶応4).2.23 彰義隊

慶喜側近、旧幕臣渋沢成一郎や天野八郎らで浅草本願寺で結成
江戸市中警備
→ 慶喜謹慎した寛永寺に拠点移動
内部対立から渋沢脱隊 → 実権を天野握り旗本浪士3000人程集まる
市中警衛を巡り新政府軍兵士と衝突 → 徳川家憂慮から勝海舟や旧幕府有志から解散命令 → 新政府軍との交戦意思
5.15 軍防事務局判事大村益次郎指揮の政府軍2000人の総攻撃受け1日で敗退。彰義隊に擁せられた輪王寺宮能久親王は海上に逃れる
5.17 常陸平潟(北茨城市)上陸 → のち奥羽列藩同盟盟主に仰がれる

虻田神社 (Abuta Shrine)

由緒: 文化元年(1804年)、虻田場所の開田・漁場開始の神恩奉賽を祈願するために、当時の虻田場所請負人和田茂平が松前藩領主松前章広の命を受け、京都伏見稲荷大社よりご分霊を頂き、床丹(入江)に稲荷神社として創建。同年、恵比寿神社も建立されたが、大正6年、稲荷神社と合祀された
文政5年(1822年)の有珠山噴火に伴い鎮座地を床丹からフレナイに遷し、昭和46年に現在の社殿が造営された。平成6年、創建190年を期に社名稲荷神社を虻田神社に改めた

英国船「プロビデンス号」虻田に上陸

The British ship "Providence" Lands in Abuta
 寛政8年8月14日(1796年9月15日)、イギリスの探検家ブロートンが率いるプロビデンス号が虻田沖(入江)に来航し、碇泊した。
 場所請負人による収奪と横暴に対するアイヌの最後の組織的な抵抗となった「クナシリ・メナシの戦い」から1年後のことである。
 急報に接した松前藩は、藩士を派遣したものの言語通ぜず、8月25日(9月26日)、あらためてロシア人応接御用をつとめた経験をもつ藩士を派遣して船内を見分、北日本の島々の海図の模写を許可して退去を求めた。
 この間、プロビデンス号の乗組員は、ボートでホロナイ川の河口に上陸、飲料水を汲み、ホロナイヌプリ(清水の山)から薪を伐りだして帰船した。
このいきさつについては、遠島タネランケ媼のユーカラによって語り継がれている。
 8月28日(9月29日)、プロビデンス号は、エトモ岬に移動、モロラン(室蘭)の湊を調査、8月30日(10月1日)恵山岬に向け、出帆した。
船長のブロートンは、噴火湾(内浦湾)の命名者として歴史にその名をとどめている。
 プロビデンス号の虻田来航は、江戸幕府に大きな衝撃を与え、蝦夷地の警備やアイヌ問題は、松前藩に任せることはなく、幕府が直接具体的な対応策を講ずるべきという意見が幕府内に急速に高まってきた。
 これを受けて幕府は、近藤重蔵・伊能忠敬などによる測量や探検、幕府役人の蝦夷地調査や巡検を進めるとともに、東蝦夷地を松前藩から取り上げ、箱館に蝦夷地奉行を置くなどの施策を講じた。
 八王子千人同心を蝦夷地に移住させての警備と開拓、有珠善光寺をはじめとする蝦夷三官寺の建立、有珠・虻田牧場の開設、南部・津軽藩による勤番所(陣屋)の設置と藩士の常駐も、このような情勢から生まれた施策であった。
 その後も蝦夷地周辺を含む日本近海への外国船の接近、来航はさらに頻繁となり、嘉永6(1853)年、アメリカ東インド艦隊司令長官ペリーが軍艦4隻とともに浦賀に来航、翌年「日米和親条約」が結ばれ、下田・箱館の2港が開港となり、長年の鎖国制度に終止符が うたれた。安政元(1854)年のことである。
プロビデンス号の虻田来航は、日本の開国への大きなステップの一つであったといえよう。そして、同時にこの地域における国際交流、国際親善の始まりでもあったのである。

道の駅で


重要文化財(建造物)指定 昭和三十六年六月七日

江戸城

旧江戸城 外桜田門

桜田門  現在この門は桜田門と呼ばれますが、正式には外桜田門といい、本丸に近い内桜田門(桔梗門)に対してこの名が付けられました。古くこの辺りを桜田郷と呼んでいたことに由来します。
 外側の高麗門と内側の渡櫓門の二重構造からなり、外枡形という防御性の高い城門で、西の丸防備のため異例の大きさで造られました(三二〇坪)。建築されたのは寛永年間(一六二四~四四)とされ、現存する門は、寛文三年(一六六三)に再建された門がもとになっています。大正十二年(一九二三)の関東大震災で破損し、復元されました。
 万延元年(一八六〇)三月三日、この門外で大老井伊直弼が水戸藩脱藩士に暗殺されました(桜田門外の変)。

国指定史跡・江戸城外堀跡

 江戸城周辺には、川や谷、台地等の自然地形をたくみに利用し、きずかれた、内堀、外堀、見付と呼ばれる城門・土手など、市中を外敵から守る施設があった。昭和31年、江戸の面影を残す地域として、赤坂・飯田橋までの外堀を国の史跡に指定し、文化遺産として、後世に受けつぐ事となった。
Edo
1849年 (嘉永2年) 配置図
1) 本丸大奥, 2) 中奥, 3)表, 4)二ノ丸御殿, 5)二ノ丸, 6) 紅葉山, 7)西ノ丸, 8) 吹上, 9) 北ノ丸, 10/11) 三ノ丸, 12) 西ノ丸下, 13)大手前, 14) 大名小路

Edo
S11年外濠公園記念絵はがき

水・水辺
 体重の60%をしめるは、いう迄もなく身近で、無くてはならないものであるが、この人体をかけ巡る水は、じん臓でじょうかされ・再生産されて、1日に80 lもの量に達するといわれている。
 生命はこの水の流れ共にいとなまれ、維持されている。
 同様に、水は人体だけでなく、森をはぐくみ、都市の基ばんともなり、清澄な川となり、水辺となって、よどみ・流れる。
 水辺には、神々の降臨する場として、多くの伝承が残されている。
 一方、鳥は天と地を往復する魂を運ぶ使者、又は魂そのものと考えられていた。
 かつては、生活空間のいたるところに水辺や鳥が、光り躍っていた。

平成2年 (1990年)

→ 江戸城 水辺の鳥

江戸水道の石枡と木管

Water
2017年11月24日 清水谷公園

 この石枡は、昭和四十五年(一九七〇)の麹町通り拡幅工事の際に千代田区麹町三丁目二番地先の道路で出土した玉川上水幹線(本管)の一部です。
 江戸は、慶長・寛永期と時を経て人口が増加すると、小石川上水や溜池上水といった旧来の上水だけでは水不足となり、新しく玉川上水が開発されます。
 玉川上水は、承応二年(一六五三)に着工され、翌三年(一六五四)六月に、羽村出身の清右衛門・床右衛門兄弟によって工事は完成したといわれます。羽村で堰を設けて玉川の水を取水し、武蔵野台地の勾配を利用しながら四谷大木戸(現在の新宿区四谷四丁目)に至る四十三キロに及ぶ水道を造りました。四谷大木戸から石枡や木樋による暗渠となり、江戸城内をはじめ、麹町・赤坂・虎ノ門などの武家地や京橋の町地にも給水されました。
 発見された水道は、四谷門をわたり江戸城内に向かう上水艦船で、図のように数段重ねた石枡に木樋を繋いでいます。当時は、所々に分水用や水質管理用、揚水用の枡などが設けられました。この巨大な石枡は、上水幹線の大きさを示すとともに、当時の都市施設の実態をしのばせてくれます。
 なお、石枡とともに出土した木樋は、区立日比谷図書文化館で展示されています。

昭和五十一年三月 千代田区教育委員会(平成二十六年八月補修)

water
神田上水懸樋(掛樋)跡
 江戸時代、神田川に木製の樋を架け、神田上水の水を通し、神田、日本橋方面に給水していました。
 明治三十四年(1901)まで、江戸・東京市民に水を供給し続け、日本最古の都市水道として、大きな役割を果たしました。
 この樋は、懸樋(掛樋)と呼ばれ、この辺りに架けられていました。
 この絵は、江戸時代に描かれたもので、この辺りののどかな風情が感じられます。

平成八年三月 東京都
文京区


大本山護国寺の縁起

Gokoku Temple 真言宗 豊山派 大本山 護国寺 当寺の創建は天和元(1681)年二月七日、五代将軍徳川綱吉公の生母、桂昌院の発願により、上野国(群馬県)碓氷八幡宮の別当、大聖護国寺の亮賢僧正を招き開山とし、幕府所属の高田薬園の地を賜り堂宇を建立し桂昌院念持仏の天然琥珀如意輪観世音菩薩像(秘仏)を本尊として、号を神齢山悉地院護国寺と称し寺領三百石を賜ったことに始まる
現在の観音堂(本堂)国指定重要文化財は元禄十(1697)年正月、観音堂建立の幕命があり、約半年余の工事日数でこの大造営が完成し、同年八月四日落慶式が挙行された
後に六腎如意輪観世音菩薩(現本尊秘仏)が安置される
元禄時代の粋を結集した大建造物で、その雄大さは都内随一と称賛される

もろもろの くのうをすくう

観世音 大悲の恵み

尊うとかりける

月光殿 国指定重要文化財は近江(大津市)の三井寺の塔頭日光院の客殿を移築した桃山時代の建築で書院様式を伝えるものとして貴重な建造物である 平成二十五年十一月、月光殿文化財保存修理工事が完了する
護国寺の茶席 境内には月窓軒、化生庵、艸雷庵、不昩軒、円成庵、宗澄庵等々の八席それぞれ数奇を凝らした茶席がありその基を築かれたのは明治から昭和初期にかけて再興に寄与された高橋箒庵翁の尽力の賜物である。

近代 (late modern period)


明治 (1868-1912)


1868.1.27(慶応4.1.3)-1869.6.27(明治2.5.18) 戊辰戦争
旧幕府軍 vs 新政府軍
王政復古の大号令 ↔ 徳川家臣は薩摩討伐支持 →
慶喜: 戦乱回避意図 → 会津・桑名の禁門警衛解き13日に大坂城に退く
新政府内部: 議定参与に公議政体派増大 → 納地問題も慶喜に有利な意見
討幕派: 孤立 → 幕府と開戦画策 → 浪人雇い乱暴狼藉働かせ江戸市中混乱
1867.12.25 幕府は挑発に乗り江戸薩摩藩邸焼払い、薩摩と幕府は交戦状態
1868. 1. 1 慶喜「討薩の表」作り「君側の奸」を除くと称し京に進軍
1868. 1. 3 鳥羽・伏見の戦い: 新政府薩長軍 vs 旧幕府軍 → 戊辰戦争発端
1868. 8 箱舘戦争
1868 (明治元).3.14 五か条の御誓文: 新政府の方針
1869 版籍奉還: 土地・人民を朝廷に返上
1871 廃藩置県: 藩廃止 → 府・県置く
1871 岩倉具視ら欧米派遣: 不平等条約改正が主目的
1871 日清修好条規締結: 清と国交開く
1872 学制発布: 全国民が学校教育を受けられる
1873 地租改正条例発布: 地価の3%を現金で納める
1873 徴兵令発布: 20歳以上全男子徴兵

. 不平氏族の乱と関連事項
1873 (M6)
10.24 西郷隆盛、征韓論敗れ辞表提出。桐野・篠原ら西郷派仕官辞職
10.25 板垣・江藤・後藤・副島ら4参謀辞職
11.10 西郷・桐野と共に鹿児島へ
1874 (M7)
02.04 佐賀の乱: 江藤新平(征韓党)・島義勇(憂国党)
1876 (M9)
10.24 神風連の乱: 敬神党(廃刀令反対) → 熊本鎮台(熊本城内)
10.27 秋月の乱: 福岡県秋月 - 神風連の乱に呼応
10.28 萩の乱: 前原一誠(山口県萩) - 神風連の乱・秋月の乱に呼応
1877 (M10)
01.29 私学校生徒、草牟田火薬庫襲撃し武器弾薬奪う
02.17 西郷、桐野利秋、村田らと鹿児島発つ。兵員総数13000人
02.19 鹿児島県暴徒征討令

征討総督 有栖川宮親王、参軍 山県有朋中将、参謀 川村純義中将

02.20 民権党(400数名)保田窪神社結集、熊本協同隊結成

薩軍先鋒川尻着

02.22 薩軍、熊本城包囲。植木で官軍薩軍初戦。乃木隊軍旗奪われる
02.25 高瀬の戦
02.28-3.20 田原坂の戦
03.20-4.15 向坂の戦
04.15 別働旅団、全部隊熊本城に入る
04.21 薩軍、木山で敗れ、本営を浜町に移す
04.22 人吉を三州割拠の地と定め軍編成改革
05.28 西郷、桐野ら宮崎入り宮崎支庁を軍務所と定める
06.01 官軍、人吉を陥落
06.03 薩軍、久木野・大口方面の戦に敗れる
07.11 官軍、小林に侵入
07.24 官軍、都城を占拠
07.31 佐土原、宮崎陥落
08.02 高鍋で薩軍敗れ、美々津方面へ退く
08.15 延岡奪還に敗れ、薩軍長井村に拠る
08.17 薩軍、可愛嶽突破。長井村で投降多。熊本隊、協同隊、竜口隊降伏
09.01 西郷ら、鹿児島に入る
09.24 官軍、城山総攻撃。城山で西郷(51歳)自刃、桐野、村田ら戦死
1876 日朝修好条規締結: 朝鮮を開国させる
1877 西南の役(西南戦争): 西郷隆盛 - 士族最後の大規模な乱
1881 国会開設の詔: 10年後に国会開設約束
1881 板垣退助: 自由党結成 - フランス自由主義の影響
1882 大隈重信: 立憲改進党結成 - イギリス議会政治を手本
1885 内閣制度できる: 初代内閣総理大臣伊藤博文
1894 治外法権撤廃: イギリス最初 - 外務大臣陸奥宗光
1888 市町村制
1888 枢密院
1889 大日本帝国憲法発布: 天皇主権 - 君主権強いプロシア憲法手本
1890 教育勅語
1894 日清戦争
朝鮮支配下に置こうとする日本 vs 朝鮮に宗主権もつ清国

1882 壬午事変(1882)
1884 甲申事変(1884)
1885 天津条約(1885)

"朝鮮に重大事件があった時、日清両国か一国が派兵を要する時は、互いに通知し解決後は直ちに撤兵する"条項 → 天津条約により、朝鮮に対する日清両国の権利は対等
日本は、清国艦隊撃破しうる艦隊を作るため増税(松方財政もその1つ)や軍事費増額重ねる

1894.2 甲午農民戦争(朝鮮): 朝鮮全羅道で農民反乱 → 直接の発端

→ 宗教結社「東学」地方支部が農民軍組織し蜂起
→ 反乱朝鮮全土に波及 → 朝鮮政府は清国政府に援兵を要請: 日清両国が出兵
農民軍は朝鮮政府と和約を結び、全羅道各地で自治的支配・身分制廃止等の改革進める
出兵した日清両国は、撤兵せず朝鮮国内に軍隊留める
日本は第2次伊藤博文内閣: 外務大臣陸奥宗光(異名カミソリ)の外交顛末記『蹇蹇録(けんけんろく)』(回顧文)に、「わが政府は、外交上において常に被動者の地位をとらんとするも、一旦ことあるの日は、軍事上において全て機先を制せん」 = 外交で遅れをとっても軍事では先制攻撃をする気構え

1894(明治27).7.25: 日本海軍は豊島沖で清国海軍攻撃 → 成歓の戦い(7.29)で勝利
1894.8.1: 宣戦布告 「天佑を保全し万世一系の皇祚を踐める大日本帝国皇帝は、忠実勇武なる汝有衆に示す。朕ここに清国に対して戦を宣す。···」
1895年初頭: 朝鮮農民軍の日本軍への抵抗鎮圧
1894.9: 平壌の戦・黄海海戦 日本軍勝利

遼東半島上陸、旅順で民間人虐殺事件 → ビゴー(仏画家, 日本軍特派員)従軍 = 写真撮影し事実伝える

1895: 威海衛占領(2月)、遼東半島制圧(3月)・澎湖諸島占領(同) → 日本軍勝利決定的

日清戦争 = 近代日本始めて他国破る → 日本人に「力」への信奉と、アジア人への蔑視観植え付ける

1894.7(日清戦争緒戦) 福沢諭吉「文明開化の進歩をはかる国とその進歩を妨げんとするものとの戦にして、決して両国間の争いにあらず」

1895 下関条約締結
日本側全権: 首相・伊藤博文、外相・陸奥宗光 / 清側全権: 李鴻章
第1条 清国は朝鮮国の完全無欠なる独立自主の国たることを確認す。よって右独立自主を損害すべき朝鮮国より清国に対する貢献典礼等は将来全くこれを廃止すべし → 朝鮮国に対する清国の宗主権否定
「独立自主の国」とあるが、実際は日本による保護国化進行。2年後(1897)、朝鮮は国号を大韓帝国(テーハンチェグク)と改称し国王は皇帝を名乗る
第2条 清国は土地の主権並びに該地方にある城塁、兵器製造所及び官有物を永遠日本国に割与す

1 左の経界内にある奉天省南部地 ··· [= 遼東半島]。2 台湾全島及び付属諸島嶼。3 澎湖列島 ··· → 台湾、リャオトン半島、賠償金等を得る

日本が遼東半島領有 = 清国主権を脅かすという理由で、ドイツ・ロシア・フランス反対(三国干渉)
日本は承諾するがロシアが同半島を租借し、日本国内に「臥薪嘗胆」の合言葉のもとロシア憎悪感情高まる
台湾を植民地とし、朝鮮より15年も長く、50年間、日本支配
第4条 清国は軍費賠償金として庫平銀2億両を日本国に支払う ···
賠償金を基金に1897年に金本位制度確立
1890 帝国議会

政府(山県有朋、松方正義、第2次伊藤博文各内閣): 海軍力増強主張
対立 ↔ 議会(立憲自由党・立憲改進党等の民党勢力過半数): 増税反対「経費節減」「民力休養」
自由民権運動中に国権主義がみられるよう民党側も基本的には国力(軍事力)増強支持
→ 天津条約から9年たつ1894年に清国と戦う軍事力(特に海軍)持つ

1902 日英同盟締結: ロシア南下政策にイギリスが対抗
1904 日露戦争: 中国東北部(満州)を巡る戦争

閔妃殺害事件: 朝鮮政府人民の反日気運は日清戦争後も高揚

1904 たばこ専売法公布
1905 ポーツマス条約締結: 韓国に対する優先権。樺太南半分を得る
1910 大逆事件
1910 日韓併合
1911 関税自主権回復: 最初に米国。外務大臣小村寿太郎
神戸水道の誕生 - 創設への道程 -
明治33(1900)年4月、神戸水道は日本で7番目の近代水道として給水を開始した。新神戸駅の北側にある布引貯水池五本松堰堤は創設時に建設されたが、100年を経過しても変わらず神戸市民の生活を支え続け、当時の人々の水道創設への努力を今に伝えている。
慶応3(1867)年開港の国際貿易港を擁する神戸に市制がしかれたのは、明治22(1889)年のことであった。人口の増加による飲料水不足が続く中、明治23(1890)年にはコレラが大流行、1000人あまりの死者を出すに至り、これを契機として水道布設の気運が高まった。神戸市は明治25(1892)年6月、内務省の雇工師であったイギリス人技師W.K.バルトンに水道施設の設計を委託したが、水道布設は巨費を投じる大事業であったため、市民や市会から賛成・反対の大議論が巻き起こった。しかし、明治26(1893)年7月、市会はとうとう水道布設を可決し、水源を布引谷及び再度谷に求めたバルトンの原設計が今日の神戸水道の出発点となったのである。
日清戦争により、認可取得は中断を余儀なくされ、明治30(1897)年にようやく創設工事に着工したものの、この間の神戸の発展はめざましく、原設計の範囲で工事を進める一方で計画の拡張が必要となった。こうして、バルトンの原設計に佐野藤次郎を始めとした日本人技師が修正を加える形で設計及び工事が進められ、明治33年、現在の神戸水道の原形が姿を表すことになったのである。

【沿 革】

  • 1867(慶応3): 神戸港開港
  • 明治初期-中期: コレラ蔓延
  • 1887(明治20): 兵庫県書記官牧野仲顕よりパーマーに神戸水道布設調査・設計依頼
  • 1888(明治21): パーマーの設計書届 (給水人口13.1万人、工事費40万円)
  • 1889(明治22): 神戸市政開始(鳴滝幸恭市長)
  • 1890(明治23): コレラ大流行
  • 1891(明治24): チフス・赤痢・コレラ患者続出。水道事業調査委員会設置
  • 1892(明治25)6月: バルトンに水道布設調査・設計を依頼
    • 給水人口15万人(将来25万人)
    • 工事費97万円(のち115万円に修正)
    国へ水道布設の認可申請を提出
  • 1894(明治27)8月: 日清戦争勃発
  • 1895(明治28)4月: 日清講和条約(下関条約)
  • 1896(明治29)4月: 国より神戸水道布設の認可及び国庫補助下付指令が下りる
  • __ 11月: 水道事業調査事務所が独立(工事長; 吉村長策)
  • 1897(明治30)2月: 拡張計画(設計・佐野藤次郎)を市会で審議・可決
    • 給水人口35万人、工事費329蔓延
  • __ 5月: 国へ計画拡張の認可を申請。起工式(5月28日、奥平野浄水場予定地)
  • 1899(明治32)3月: 国より拡張計画の認可
  • __ 7月: 北野浄水場完成
  • __ 8月: バルトン没
  • 1900(明治33): 奥平野浄水場完成
  • __ 3月: 布引貯水池堰堤完成
    通水式(3月24日、奥平野浄水場)
  • __ 4月: 給水開始、水道部創設
  • 1901(明治34)6月: 烏原貯水池堰堤工事着工
  • 1905(明治38)5月: 烏原貯水池堰堤完成
  • __ 10月: 竣工式(10月27日、烏原貯水池)

北海道

箱舘戦争
旧幕府海軍副総裁、榎本武揚らは旧幕府軍艦8隻率い江戸港品川沖脱出
新政府軍に抗する奥羽越列藩同盟の東北戦争に参加後、蝦夷地に向かう 1868.10 榎本 内浦湾面する鷲の木(森町)に上陸 → 峠下(七飯町)で箱舘府兵破り五稜郭占領
1868.11 榎本 五稜郭入城 → 松前城、舘城(厚沢部町)攻略
1869(明治2): 反撃体制整えた政府軍は4月に乙部に上陸し旧幕府軍と戦闘
1969.5.18 土方歳三ら失った旧幕府軍降伏 → 五稜郭開城
1869.5.25 箱舘戦争終結

Enomoto
榎本軍鷲ノ木上陸地跡
明治元年(1868)旧10月20日、噴火湾中央部の鷲ノ木村に榎本武揚(徳川旧臣)率いる艦隊が上陸しました。上陸時の鷲ノ木は、積雪30 cm、北西の強風で波は荒れ(タバ風)、暴風雪であったといわれる。
榎本艦隊は、旗艦海陽丸ほか七艦(回天・蟠龍・長鯨・神速・鳳凰・回春・大江)で、このときの人員は、榎本をはじめ松平太郎、大鳥圭介、土方歳三、古屋左衛門ら2千人以上と言われ、上陸したのは主に陸兵でした。
当時の鷲ノ木村は戸数約150、人口約800で茅部街道の要所でもあり、箱館への交通も開いていました。
Enomoto 21日、人見勝太郎以下32名の先発隊が峠下村(現七飯町)で待ちかまえていた官軍と撃戦となり、箱館戦争へと展開していくことになります。開戦とともに鷲ノ木村は榎本軍の後方陣地となり、高森台場(現東森)、石川原沢口台場(現富士見町)、湯ノ崎台場(現鷲ノ木)などが構築されました。
こうして、明治2年5月の、箱館戦争終結までは負傷者や病人達の療養地となり、また戦死者は、霊鷲院に手厚く葬られました。
今も鷲ノ木の墓地には榎本軍戦死者たちが眠っており、史跡公園内には上陸記念碑や慰霊碑などがあります。

森町教育委員会
平成24年3月 森町


明治政府
1869.7. 8 開拓使設置
1869.8.15 北海道と命名
移民奨励植民策 Ex. 屯田兵
土地: 道全土を無主地(主無き土地)とし国有地(官有地)化 → 積極的払下

+ 法人に大面積貸与付与 + 個人に開墾後無償で与える等

→ 和人人口: 明治初期 12万人 → 30年余後 > 100万人
場所請負制度廃止 → 和人急増、政府土地政策、サケ・シカ捕獲禁止、強制移住等
→ アイヌ生活領域狭まり困窮 + 和人持ち込む梅毒・結核等で多数死亡
1869(M2)末 島義勇判官: 札幌本府設営初着手 - 札幌開発着手
札幌: 鹿熊出没する人煙稀な原野。島の市街計画大綱は、岩村判官が受け継ぎ、幅60間(110 m)の東西に伸びる大通りで官地と町地を分ける碁盤目の街並の基礎できる → 官地中央に開拓使本庁舎や官舎が、東部に蒸気や水車による各種官営工場が建ち、室蘭・小樽に通じる車道も整備
札幌: 移住者に魅力乏しい新開地で開拓使の移民保護にも関わらずM9年頃人口3000人未満
1876(M9).8: 札幌農学校(北大前身)開校
クラーク、ホイーラー、ペンハロー3教授(米)を迎え開校
日本初の農学専門高等教育機関。教授陣、カリキュラム、教科書等、多くの点でアメリカンカレッジを模倣
開校式1週間後に、明治天皇の名代として、北海道視察中の大政大臣三条実美が来校
1899 (M32): 政府制定「北海道旧土人保護法」 = アイヌ民族和人同化策
建前: 土地付与し農業奨励や医療・生活扶助、教育保護対策実施
→ 現実: 土地を始め諸分野でアイヌ民族諸権利奪い所有制限。付与土地も農耕不適地多 → 開墾できず没収や戦後農地改革で強制買収等
アイヌ民族言語・文化破壊目的とする政府の同化政策と差別
→ アイヌ民族: 和人風習・日本語使用強制

言語・文化使用困難 → 民族文化世代間伝承抑圧
民族児童教育: 就学年限短縮、教科限定、内容・程度簡易化、日本語での教育等 → 差別・隔離・同化教育長期継続

屯田兵制度
1870(M3): 開拓使から樺太開拓使分離 → 黒田清隆が開拓次官(樺太専任行政担当)

黒田1月余り樺太視察 → 建議書提出 → 現情勢で樺太は後3年位しか保てないと発言
改革: 石狩に領府設置、大臣を総督にし北海道・樺太一体化経営。定額金を1万5千両、諸藩分領を廃止、外人技術者招聘、留学生派遣、等

1871(M4): 建議採用 → 黒田は山川健次郎ら3人の留学生と渡米

合衆国農務局長総裁ホーレス・ケプロン招聘成功

1873(M6): 黒田、屯田兵設立建白書提出
1874(M7): 屯田兵条例制定 → 明治維新に失業した旧士族救済と北海道開拓、北辺防衛目的
1875(M8): 屯田兵第1号、現札幌市琴似地区入殖開始 → 屯田兵村

以後、札幌、室蘭、釧路、根室と軍事的要所に13兵村、2900戸余り配置

1891(M24): 条例改正 → 「平民」も受入れ兵役義務20年間に限る = 平民屯田

滝川、旭川、北見等24地区に4400戸余り配置 - 主任務: 奥地開発と防衛


地蔵沢記念碑

馬頭観世音
昔、地域で数多くの農耕馬が飼育されており田畑を耕したり運搬などに使われ、今日の高岡の農業の基盤を築くため大きく役立った。
その愛馬たちが怪我や病気で亡くなった時、所有地の片隅に埋め、塚などを立て弔っていたが、最寄りの数人が適当な場所を求め碑をたて、毎年七月二十日「馬頭さん」と言い皆でお参りしている。
地蔵菩薩
開拓当初の頃、行きずりの人が倒れたり、又耕作中に熊に襲われたり、事故にあって亡くなった方のために墓標を建てた。
明治の後期(1910年頃)地元の女性の葬儀の際、地蔵沢川にかかる丸太の橋を渡っているときに足元がぐらつき柩を落とす粗相をしてしまった。それらの霊を慰めるためにこのお地蔵様を建立した。

石狩市 (2006年4月9日)


locust hill

札幌市指定史跡 手稲山口バッタ塚

飛蝗
バッタ科の昆虫が群飛して移動するもの。広大な草原地帯で発生し、通過地域の農林作物は惨害を受ける。生息密度が低いときは群飛しないが、高密度になった世代では形態上・生理上に著しい変化が起こって飛蝗化する。

- 広辞苑より -

農耕が広く行き渡る前の北海道にも、何十年がおきに飛蝗が発生したことをアイヌの人たちは語り継ぎましたが、記録に残っている限りでは、明治13年に十勝に発生して、日高、胆振、後志、渡島などへ広がり、同18年まで農作物などに被害を与え、開拓に着手したばかりの農家に深い絶望感を与えたトノサマバッタの飛蝗は、最大規模のものでした。
明治政府は開拓農家を励まし、また飛蝗が津軽海峡を越えて本州へ進入するのを防止するために、当時のお金で5万円を支出して、飛蝗の駆除に努めました。
当初はアメリカ、ヨーロッパ、中近東で行われた防除方法を参考にし、捕らえた幼虫成虫等は穴に埋め、土で覆ったバッタ塚を各地に数多く造らせましたが、現在ではほとんど残っていません。
ここに見られる幅広い畝状の塚は、効率よく工夫され、明治16年、主に札幌区の付近8 km内外の地域で堀集めた大量の卵のうを、不毛に近い砂地に列状に並べ、各列の上にその両側の砂を厚さ25 cmほどかけて、造られたものと推定されます。当初この様な畝は100条ほどありましたが、昭和42年にそれらの一部が拓地(株)から札幌市へ寄贈され、昭和53年8月21日に札幌市指定史跡となり、ここに保全されています。

札幌市・札幌市教育委員会
Locust mounds (2017年11月18日銭函風発下見の時)


Shimamatsu
2016年5月3日

旧島松駅逓所
一. 名称
国史跡 旧島松駅逓所
二. 指定年月日
昭和五十九年七月二十五日
文部省告示 第百十三号
三. 説明
 島松駅逓は、北海道各地に残された駅逓の一つで、明治初期の姿を残す駅舎・施設は、北海道の近代史を識る上で貴重な遺構である。
 駅逓は、交通不便の地に駅舎、人馬等を備えて宿泊・人馬継立・逓送等をはかるために置かれた施設である。
 北海道における駅逓制度は、古く松前藩時代にさかのぼり、明治に入り開拓使に直結された形で駅逓業務が継続された。
 島松駅逓は、明治六年(一八七三)十二月、箱館・札幌間の札幌本道の開通に伴い島松川の右岸に設置されたのに始まり、初代取扱人は勇払場所支配人の山田文右衛門(明治八年まで)が、二代目は山口安五郎が務めた。
 その後は、明治十年(一八七七)、中山久蔵が請人となって鶴谷新次郎が駅逓取扱人となったが、明治十七年(一八八四)八月から中山久蔵が正式に駅逓取扱人となり、以後島松駅逓が廃止されるまで、この駅逓の業務は中山家によって行われた。
 現在の木造平屋建ての建物は明治六―十三年(一八七三―一八八〇)に建てられた中山久蔵居宅・客室に同十四年造築の行在所が主体をなし、その後小規模の改修が行われた。
 史跡内にはハス池、井戸などの附属施設が保存されている。 ・敷地面積 四,一八〇.三〇 平方米
・建物面積 三三三.九六 平方米
・構造 木造平屋建 木端葺
大隈庭園
由来: この庭園は、井伊掃部頭(かもんのかみ)・松平讃岐守の下屋敷にあった和様四条家家風の名園を本学創設者 大隈重信が文人風に改造したものです。没後、邸宅とともに大学に寄贈されました。
 1945年(昭和20年)5月の空襲で庭園は廃墟と化しましたが、多くの人々の努力により、ほぼ昔の景観どおりに復元され、今日に至っております。

(早稲田大学) 2017年3月15日

産業革命 (Industrial revolution)


明治政府: 当初殖産興業政策 → 近代産業の保護・育成
1880頃 第一次産業革命 = 民間企業による紡績業・製糸業発達

Ex. 1872 富岡製糸場開設(群馬県富岡): 殖産興業の一環

日清戦争後 第二次産業革命: 賠償金の多くを軍事費

Ex. 1901 八幡製鉄所(官営工場)操業開始 → 重工業発達

→ 資本主義社会確立

大正 (1912-1926)


1914 第一次世界大戦開戦(First World War) → サラエボ事件発端
1915 中国に21か条の要求 - 中国における権益の拡大を押しつける
1917 ロシア革命 - 指導者レーニン
1918 米騒動る - 富山県から全国各地に広がる
1918 原敬の政党内閣成立 - はじめての本格的政党内閣(立憲政友会)
1919 朝鮮で三・一運動 - 日本からの独立を叫ぶ
1919 中国で五・四運動 - 二十一か条の要求の取り消しなどを叫ぶ
1919 ベルサイユ条約締結 - ドイツとの間に結ばれた条約
1919 パリ講和会議参加
1920 国際連盟成立 - アメリカ大統領ウィルソン提唱
大正デモクラシー
1923.9.1 関東大震災: 大正関東地震による災害
被害: 神奈川県・東京府 + 千葉県・茨城県-静岡県東部の内陸と沿岸

人災: 190万人被災 (105,000人余が死亡か行方不明)
建物: 全壊109,000余棟, 全焼212,000余棟
+ 液状化 (→ 地盤沈下・崖崩れ) + 津波

1925 治安維持法成立 → 名目は社会主義者を取り締まる法律 1925 普通選挙法成立 → 25歳以上の全ての男子に選挙権が与えられる

現代 (Modern ages)


昭和 (1926-1989)


1927 ジュネーブ軍縮会議参加
1928 第一回普通選挙
1929 世界金融恐慌 - ニューヨーク株価大暴落が発端
1931 満州事変 - 柳条湖事件発端
1932 5.15事件 - 犬養毅殺害。政党政治終焉
1933 国際連盟脱退 - 満州からの撤退を不服とし脱退。国際的孤立
1936 2.26事件 - 軍部独裁へ

陸軍皇道派の影響受けた青年将校らが1483名の下士官兵を率いたクーデター未遂事件
岡田内閣総辞職 → 廣田内閣: 思想犯保護観察法(1936.5.29)成立

1937 日中戦争: 盧溝橋事件発端 → 全面戦争
満州国
Museum of the Imperial Palace of the Manchu State Palace Palace
偽満皇宮博物院参観経路図___偽満宮博物院_遊_客服務中心平面図
1939.5-9 ノモンハン事件

満州国(= 日本) vs モンゴル人民共和国(+ ロシア) - 国境線廻る紛争

1939 第二次世界大戦 (World War II)
ドイツのポーランド侵入
1941 太平洋戦争 (the War of the Pacific)
1941.12.8 真珠湾攻撃(Remember Pearl Harbor!) → 宣戦布告遅れる

1:30 (ハワイ時間午前8時)、南雲機動部隊ハワイ北方370 km到着 → 第一次攻撃隊183機発進
3:19 オアフ島上空: 総指揮官淵田中佐「全軍突撃」命令 → 攻撃開始
3:23 「トラ、トラ、トラ(ワレ奇襲に成功セリ)」電文発進。急降下爆撃隊が飛行場攻撃しハワイ守備隊航空機迎撃せず壊滅 → 雷撃機と水平爆撃機が湾内戦艦群攻撃
真珠湾炎上、戦艦5隻沈没・座礁、3隻中小破 (空母がない)

1945
08.06 広島原爆: エノラ・ゲイ(B-29)からLittle Boy投下

約1分後(8:15): 今日の原爆ドーム(Atomic Bomb Dome)上空580 mで爆発
→ 爆風と熱でエネルギー発し放射線(γ線と中性子)発生 「爆発時、空にもう1つ太陽が現れたようだ」
爆風は半径2 km以内の建築物破壊。山に反射した爆風が再び市中心部襲う
多被爆者数年内死亡。障害児(遺伝子異常)、不妊多発。死者年末まで推定 > 14万人、総計20万人
一般市民 + 学生・兵隊、町工場強制労働韓国人

08.09 長崎原爆: 渾名ファットマン

原爆エネルギー > Little Boy → 地形の関係で被害は広島より小(でも大)
年末までに原爆による死亡者推定70000人

08.10 (政府) 条件付ポツダム宣言受諾
08.14 (天皇) 無条件受諾 (無条件降伏 unconditional surrender)

8.15 玉音放送 → 終戦

1946 東京軍事裁判判決

1947 六三制教育実施 (4月)

1947 日本国憲法制定 (5.3 施行): 国民主権・基本的人権の尊重・平和主義
1950 朝鮮戦争 → 警察予備隊(後の自衛隊)創設
1951 サンフランシスコ平和条約締結: 日本の独立回復 (吉田茂)
1951 日米安全保障条約締結: 米軍駐留認める
1954 死の灰事件 → ビキニ水爆実験
1956 日ソ共同宣言: ソ連と国交回復 → 北方領土問題未解決
1956 国際連合加盟
1959 国民健康保険
1959 メートル法実施 (全面実施は1966.04.01)
1965 東京オリンピック
1965 日韓基本条約調印: 大韓民国国交正常化 → 北朝鮮国交結ばれず
1954(S29).12-1957(S32).06 神武景気
1958(S33).07-1961(S36).12 岩戸景気
1965(S40).11-1970(S45).07 伊弉諾景気 ≈ 高度経済成長
1970 大阪万国博覧会
1972 日中共同声明 → 中華人民共和国国交回復
1972 沖縄復帰 (沖縄県) → 施政権返還。米軍基地残る
1973.第1次石油危機(オイルショック)
1973.10 第4次中東戦争 → 産油国原油価格引き上げ・禁輸措置 → (世界的)石油危機

日本は即座に産業界影響(Ex. 石油価格2ヶ月で約4倍値上) = 経済打撃
「狂乱物価」「マイナス成長」 = 原料不足・資材高騰、操業時間規制等 → 物価急騰 + インフレ

→ 日本石油危機 = トイレットペーパー買いだめ騒動、ガソリンスタンド休日休業、新聞減頁等

消費者パニック Ex. 店頭から日用品(トイレットペーパー、砂糖、醤油、洗剤)姿消し危機的モノ不足感発生 + 便乗値上 「モノがなくなる」風説口コミで広がる → 商店「お1人様1個限り」規制等 → 消費者不安煽り、買いだめのイタチごっこ

1974 国土利用計画法
1977 領海12海里、漁業専管水域200海里政府決定
1978 日中平和友好条約締結 - 経済・文化交流活発化
1979: 第2次石油危機

政府: 石油備蓄強化と代替エネルギー利用研究に力入れる(本当か)
石油危機と公害問題を主要因に1970年代は日本科学技術大転換期

Ex. サンシャイン計画(通産省): 太陽・地熱・石炭・水素等のエネルギー開発を目指し74年度から着手

→ 1980: 「省エネルギー」呼びかけ, e.g., 「省エネルック」(流行らない)

1989 (S64). 1. 7 昭和天皇崩御

千代田区立佐久間公園

ラジオ体操会発祥の地
 ラジオ体操は 昭和3年11月 簡易保険局が国民の健康増進のために国民保険体操と名づけて制定したものであるこれがひとたび放送されるやラジオ体操として親しまれ全国各地にラジオ体操会の誕生をみるにいたった
 この地は 当時万世橋警察署の面高巡査が町内会の人達と共に全国に先駆けて「早起きラジオ体操会」を始めたゆかりの地である
 ラジオ体操50年に当りこれを顕彰する

昭和五十三年八月一日
郵政省簡易保険局
日本放送協会
全国ラジオ体操連盟

平成 (1989-)


バブル → 1993 バブル崩壊
湾岸戦争
1995. 3.20: 地下鉄サリン事件
2001. 9.11: 米国世界貿易センタービル、テロにより数千人死亡
米国: アフガニスタン本拠地とするタリバンにオサマ・ビンラディン引渡し要求 → 拒否される
2011. 3.11 東日本大震災
東北地方太平洋沖地震 + 津波 + 福島原発メルトダウン (俺の田舎を返せ)

2016.3.10時点: 死者・行方不明者 18,455人

2018. 9. 6 胆振東部地震

2016年3月21日 JR仙台駅

常磐線/上り 岩沼・亘理方面
  • 亘理~相馬間で代行バスを運営しております。列車は浜吉田までの運転ですが、代行バスへは亘理でお乗換えください。
  • 詳しくは駅係員におたずねください。

2016年3月21日 松島

瑞巌寺参道再生工事についてのお願い
この度、東日本大震災による津波日被害を受けた参道の杉林再生工事を行っております。
塩害による被害木、枯損支障木等の伐採、土壌の入れ替え、排水、新たな杉の植栽、参道通路の整備工事を行っております。皆様方には大変ご迷惑をお掛け致しておりますが、何卒ご理解ご協力をよろしくお願い致します。

宗教法人 瑞巌寺


  • 白石一郎. 1987. サムライの海. 文春文庫
  • 山本博文. 2012. あなたの知らない 北海道の歴史. 歴史新書, 洋泉社
  • 笠谷和比古. 1994. 関ケ原合戦: 家康の戦略と幕藩体制. 講談社, 東京
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