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科学を専門とする人(= 学者)。ただし、特に「自然科学」を研究する人を指すこともある。ここでは、自分が科学者だと思う人と講義で紹介する人を科学者という。大学教員が科学者とは限らない。
科学 science植物群集生態学 Plant community ecology
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分類学
自然科学(日本)丘 浅次郎 1868-1944, 動物学・寄生虫学1904 「進化論講話」 1906 日本エスペラント協会 (黒板勝美) 小泉 丹 1882-1952, 動物学1930 「進化学経緯」 1943「日本科学史私攷」 今西錦司 1902-1992, 生態学、人類学(霊長類学)
棲分け説: 垂直分布・渓流分布からアイデア
ルイセンコ学説支持 1979 「新しい科学論 -「事実」は理論をたおせるか」 1998 「安全学」 |
相対性理論 あとは記録不用では |
• 大人は立ち止まり『時間』や『空間』について考えない子供だけがする • 教育とは、学校で習ったことを全て忘れた後に残っているものである • 好奇心は、それ自体存在理由を持っている • 学べば学ぶ程、自分が何も知らなかった事に気づく。無知に気づけば気づくほど、より一層学びたくなる ☛ 名言 |
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1943(昭和18)年-
1987-1998 有珠火山観測所所長 (自分にとってはずっと) 有珠山の主治医1977年噴火前日より噴火予知研究に従事。1981年から2001年の間、北大有珠火山観測所に勤務。2000年の噴火を予知し、地域の連携で早期避難と犠牲者ゼロを実現。「有珠山の主治医」と親しまれ、「世界ジオパーク」登録にも力を注ぎました。 |
1744-1829, 仏: 博物学者 1788 「フランス植物誌」 1794 動物学に転向
国立自然博物館教授となり、博物館の無脊椎動物標本を調べる |
1809 「動物哲学」 3部冊: 第1部 = 分類の基本を説き、進化思想を述べる
リンネ分類体系: 動物 = 哺乳類、鳥類、爬虫類、魚類、昆虫類、ゼン虫類 1820頃 視力を失っていた |
1809.02.12 誕生。親の希望で医学の道へ進もうとした 1831 ケンブリッジ大学神学部卒 – その間生物の研究 1831-36 ビーグル号南太平洋周航 22歳 = Humboldt「赤道紀行」に刺激され探検参加: 南アメリカ海岸、オーストラリア、南太平洋諸島(ガラパゴス等)観察。化石・現存動植物の観察(ダーウィンフィンチ、ゾウガメ、トカゲ) 1842- ケント州ダウンに住み膨大な資料整理1858.6 ウォーレスから自然淘汰に基づく種の起源に関する論文受け取る 1858.7.1 ウォーレス、ダーウィン Londonリンネ学会で両者の論文を同一表題で同時掲載 |
1859 "種の起源"を最初の計画より縮小した形で発表
1-5章: 人為選択、自然選択の自説 [仮定] 人為淘汰 ≈ 自然淘汰 1871 "人間の由来": 雌雄選択1872 "種の起源"第6版
進化思想および自然淘汰説は確固たる地位を築き、他の学問思想にも大きな影響を及ぼす |
クレメンツの遷移基本概念Basic concepts on succession by Clements 遷移successionの4プロセス(発生-成長-成熟-死) = Initiation of succession and fluctuations
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[日本生態学会(編). 生態学事典 改]
Key words: plant community classification, ordination and classification techniques, significance of species diversity, processes and mechanisms of succession, plant biomass and productivity, allelopathy, five kingdoms 群集生態学者。1920年12月27日に合州国カンサス州ウィチタで生まれる。1938年ウォシュバン市立大学入学、1942年生物学で学士を得て卒業する。第二次世界大戦時に兵役のため英国に滞在する。帰国後の1946年にイリノイ大学大学院に入学し、群集個別説を論じたA.G. Vestal及びV. Shelfordに師事する。エコトーンecotoneの存在を重要視する極相パターン説climax pattern theoryの萌芽は、この時点で芽生えていたともいえる。進学後、2年半で「グレートスモーキー山脈における植生解析A vegetation analysis of the Great Smoky Mountains」にて学位を取得する。同年、ワシントン州立大学動物学科勤務をきっかけにシスキユー山脈等において植物群集パターンに関する研究を始めるが、1951年に退職する。同年、ゼネラルエレクトリック社に転職し、水界ミクロコズムを研究対象に生態系内での栄養分移動等について研究し、ホイッタカーの群集類似度 percentage similarity of community samplesを発表する。1954年、ニューヨーク市立大学生物学部に勤め、グレートスモーキー山脈において標高勾配に沿った森林群集の生産力等の研究を再開する。1966年、カリフォルニア大学個体群・環境生物学学科に教授として赴任し、1968年にはコーネル大学生態学・生物学部門に移り、"Communities and Ecosystems"の執筆を開始し1970年初版を出版する。コーネル大学では、共同研究者と、多くの群集多変量解析手法の比較検討をもとに環境勾配分析gradient analysisを発展させ、また、群集多様性、ニッチ、エコトーン等の生態学的現象を説明する多くの概念を整理した。1971年に米国生態学会副会長、1974年に米国学士院会員となる。1980年10月20日、癌のため亡くなる。翌1981年、米国生態学会から生態学賞を受ける。 |
主要文献 (追記)
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日本
杉田玄白 1733-1817: 「解体新書」= 「ターヘルアナトミア」オランダ語版翻訳 神経、軟骨、動脈、盲腸、十二指腸等 → 杉田らによる翻訳新語 宇田川榕庵 1798-1846: 「舎密開宗」 = 日本初化学書1847 佐賀藩: 種痘 1860 江戸: 種痘 植物学= 本草家 herbalist: 薬用植物等の使用が主たる目的陶弘景(中六朝, 456-536): 神農本草経註 深根輔仁: 本草和名18巻(918?) 源順: 和名類聚抄(934?) 周定王朱橚(選) (明, 1361-1425): 救荒本草(1406) 李時珍(中, 1518-1593): 本草綱目12巻(1578完成) 日本に影響 (博物学的体裁普及) 徐光啓(中, 1562-1633): 農政全書(死後1639刊行)貝原益軒: 名 篤信(晩年改名), 字 子誠, 通称 久兵衛, 号 損軒
1630-1714: 1694 花譜 → 1704 菜譜 → 動物、植物、鉱物等1362種 1713 養生訓: 養生(健康法)指南書 = 身体 + 精神 寺島良安(医師, 1654-?): 1712 和漢三才図会 105巻 (類書 = 百科事典)小野蘭山 (1729-1810): 1803-06 「本草綱目啓蒙」48巻 岩崎潅園 (1786-1842): 1828 「本草図譜」92冊 飯沼悠斉 (1782-1865): 1856 「草本図説」30冊 松野 礀 (1846-1908): 1872
貧鉱物資源等 ⇒ 人的資源と森林資源涵養が国家に資する(大久保談)
1609-1628 (タイオワン事件で閉鎖), 1632-1640 平戸 出島三学者 ☛ Kaempfer, Thunberg and Siebold 伊藤圭介 (1803-1901): Sieboldに師事
1829 「泰西本草名疏」 - リンネの分類体系紹介 川原慶賀 (1786-ca 1862): 画家 - Siebold要望に答え多数の植物画描く Bürger, Heinrich (1806-1858) 1984 (明17): 漢医禁止令出令 → 漢方的研究衰退 三好 学 (1862-1939, Dr Physiol) 天然記念物(denkmal)の概念導入 - 希少植物保存活動 1895 帝国大学(東大)教授 1915 「天然記念物」 1926 「天然紀念物解説」 新島喜直 (1871-1943)1899 札幌農学校森林科開設, 森林美学講座 1905 ギーセン大学(ドイツ)で造林学、森林学 - 学位 造林: 林木を新たに仕立て森林とする 「北のヤシの木」
森林家は森林を愛するものでなければならぬ 宮部金吾 (1860-1951)1881 札幌農学校卒 - 開拓使御用掛 1883 札幌農学校助教 1889 札幌農学校教授 (植物学, 植物病理学, 菌学)・植物園主任
☛ 宮部線 |
今田敬一 (1896-1981) 1921 北海道大学農学部林学科 1934 学位論文「森林美学の基本問題の歴史と批判」 原田 泰 1948 「森林と環境」
略奪林業を戒め育成林業へ 1500種以上に命名 (スエコザサ) 「私は植物の精である」
武蔵国埼玉郡河原井村生(旧姓折原, 現埼玉県)
東京農林学校(現東大農学部)卒業 → ドイツ留学 T15: 尋常小学校理科書に於ける植物教材の郷土化研究 中井猛之進 (1882-1952)1908 東大小石川植物園勤務 1930 東大教授・小石川植物園長 1943-45 ボイテンゾルグ(現ボゴール)植物園長 1949 国立科学博物館長 小泉源一 (1883-1953) 工藤祐舜 (1887-1932): 植物分類学の泰斗
「地球の歴史は地層に、生物の歴史は染色体に記されてある」 恵迪寮出身 舘脇 操 (Tatewaki Misao, 1899.9.8横浜生-1976.7.18) 北海道の植物分布を総括 1918 北海道大学予科入学 - 植物学教室宮部金吾に師事 1924 農学部農業生物学科卒業 1924-1963 北大農学部講師-教授(1956-1963 植物園園長兼務)
北欧学派植物社会学 1955-1967 汎針広混交林 pan-mixed forest 1963 名誉教授
松川五郎(1925年北大農学部卒)が山形県の開拓義勇軍を連れ満州から引揚げサロベツに入植した所の調査をしているらしい 秋山茂雄 (1906-1984)辻井達一 (1931.4.22-2013.1.15) 何をやったというよりも、中国の湿原に一緒に行ったということで
谷地坊主 (Tsuyuzaki & Tsujii. 1992)
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アウグスツス派牧師 → 教会 = 知的中心 → 農事試験場的役割存在 → エンドウを用いた実験に弊害はないか少なかった (前任者クラーツェル) メンデルの法則 Mendelian rule: 実験的発見 - 成功は個別化と機械的観察による
遺伝単位 unit of inheritance (element = gene)発見 – 外部特性characterをもとに知る |
日本植物学会第77回大会 (2013年9月15日) シンポジウム
寒さからの生命系: 耐寒性の父・酒井 昭先生
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Dr. Shizuo YOSHIDA, Emeritus Professor of Hokkaido University
• メインページ (シンポジウム) 私の博士課程のときの指導教官です。履歴書に証拠が残されてます。 なぜこのページを作ったのか?それはですねー。この前ふと思って調べてみたら、長寿のお祝いの2番目がそろそろではということに気付いたのでした。それで、それを吉田先生にバレないうちに企画できるかなという魂胆が動機なのです。 シンポジウム準備委員会液晶プロジェクター・指示棒およびポインター・受け付け一般(具体的に) |
読びかけ: 吉田理一郎, 前島正義 ○, 長谷 昭 ○, 鷲尾健治 ○, 佐藤利幸 ○, 菅原康剛, 上村松生 ○, 吉江文男 ○, 石川雅也, 川田健文, 露崎史朗 ○, 村井麻里 ○, 遠藤千絵 ○, 大平万里, 河村幸男 ○, 荒川圭太 ○, 竹澤大輔 ○, 母坪研巳, 桑原慎子, 宇梶徳史 ○, 陶山哲志, 長尾 学, 岡本(八反田)幸子, 小池倫也, 田村晃, [特別] 上野栄子, 堺 梅子 他に声をかけるべき方の連絡先(e-mail address)を教えて下さい。 その代わり、声をかけるのは身内の範囲にしましょう。あまり巨大化すると ... |
[ 哲学 ]
フィヒテ・ヨハン・ゴットリープ (Fichte, Johann Gottlieb), 1762-1814 ヘーゲル・ゲオルク・ヴィルヘルム・フリードリヒ(Hegel, Georg Wilhelm Friedrich), 1770-1831 ドイツ観念論の代表 - 弁証法 ハイデガー・マルティン (Heidegger, Martin) 1889-1976, 独「存在と時間」 - 実存主義 ソシュール・フェルディナン・ド (Saussure, Ferdinand de) 1857-1913近代言語学の父 (近代 = 構造主義) - 言語哲学 フーコー・ミシェル (Foucault, Michel), 1926-1984, 仏 ポスト構造主義: 1960年代後半-1970年代後半に仏で盛ん 構造主義を批判的に継承し、それを乗り越えようとする思想運動 |
リオタール, ジャン・フランソワ (Lyotard Jean-François), 1924-1998, 仏
「大きな物語の終焉」「知識人の終焉」 - ポストモダン ポスト構造主義の代表的研究者「グラマトロジーについて」 ジョン・サール (Searle, John Rogers), 1932-, 米: 言語哲学、心の哲学
1969 言語行為 - 言語哲学への詩論 ネオプラグマティズム neopragmatism
1967 「言語論的転回」編集 |
ドイツ観念論哲学 – 自然科学真理 → 善 = 良心の声の判断 1781 純粋理性批判: 合理主義と経験主義を総合した超越論主義 1788 実践理性批判 1790 判断力批判 批判哲学: 批判critiqueの必要性 [現代哲学の主流] – 形而上学否定 万人が承認する必然的 necessary、普遍的 universal真理は、因果律も個人の主観的であってはならない 意識 contiousness → 我 ego (主観 subject) ↔ 対象 object (客観) → 命題 |
先験的: カント哲学基本概念の1つ
西田幾太郎 1870-1945 善の研究 → 直感 intuition (= 純粋経験・直接経験) ≈ 体験 experience 普遍妥当性 universal validity: 誰にでも一様に受け入れられる性質
普遍的真理 universal truth: 自然科学において普遍妥当性のあるもの → 検証 verification可能 |
北ドイツ代々豪商家庭生 → 商人になるべく育てられ少年時から諸外国見聞 父は精神異常自殺、母は女流作家で成功しサロンで虚栄心に溺れる生活 自身は学問を志し、カント哲学・インド哲学学び、厭世観強い主意主義(意志こそ第一)的思想を構築 → 『意志と表象としての世界』 遺産で生涯生活困らないが、ベルリン大学で私講師(無給)とし講義試みる。同大ヘーゲル全盛で、彼の思想は無視され在野学者として失意と屈辱の日々が続く。50年代にヘーゲル哲学に陰りが見えると名声獲得
家庭環境、ヨーロッパ諸国見聞での人々の生活、その後の不遇な失意の日々は、ロマン主義的誇大妄想理想主義ではなく、徹底した厭世観へと走らせ、世紀末的ニヒリズムを先取り 意志 = 現象は充足根拠律形式に従うが、自身は根拠なき盲目的 意志は普遍的イデアの模像にすぎず個別的で無限で決して満たされない。芸術ではイデアに昇華され、解脱へもたらされるものの、この解脱も一時である。全個体本質である意志の同一性を認識し、同情を通じ愛を獲得しても一時的である。本当の心の平安は、意志そのものを否定するしかない |
ドイツ観念論としては傍系 → 19世紀思潮の方向を明確に打出す
哲学は、デカルト的認識論ではなく、意志とその実践を論ずべき時代 充足根拠律の四根拠: 充足根拠律(ライプニッツ)を生成・認識・存在・行為の4面に分ける
表象界は世界外面 → 原意志: 根底に認識が及ばず根拠も目的もなく盲目的に存在する意志 |
卑賎から身起こすデンマーク(Copenhagen)毛織物商家で誕生 虚弱体質。厳格に育てられ父の希望で神学学ぶ 父が神に貧困呪い、自分を女中に生ませた + 先母や5人の兄姉が相次ぎ死去 → 「神の怒り」と罪意識 → 精神的危機(「大地震」と呼ぶ) 20代後半: 約束者ある女性(レギーネ)奪い婚約 → 絶えざる自己の内面的苦悩から一方的破棄(レギーネ体験) → 事件前後に父死亡 → 亡父財産で生活 Berlinでシェリンクの積極哲学講義に感銘 → 「不安の概念」他数冊偽名発表 コルサール事件: 大衆週刊誌「コルサール(賊)」に低俗暴露趣味に対し喧嘩売る - 返り討ち - 誌上で侮辱され市民中の笑い者 アドラー事件: 牧師アドラーを、大衆に覚醒促す宗教改革的人物と信じるが期待は裏切られる → 宗教批判へ傾倒 → 主著「死にいたる病」他執筆 デンマーク国教会監督ミュンスターの死に際し、彼が「真理の証人」と讃えられた事を切欠に喧嘩を売る。大衆迎合し世俗主義に堕落した国教会偽善的体質をパンフレットで告発し続け、論戦中、体力尽き路上で倒れ42歳死去
キルケゴール = 珍名「墓場」意味(発端, 先祖貧しく教会屋根借りた?) 親族に兄姉早世、精神異常者・自殺者多 - 自身も虚弱な「せむし」で短命予感。呪われた死と狂気と畸形の血 - 彼の明晰な理性は罪と苦悩と絶望の淵へ。父の財に囲まれ、市中心の大邸宅に暮らし、敬虔高尚な教育を受け、美的生活に耽溺しつつ、表面的に満ち足りた生活中で、内面的に絶えず例外者としての存在を感じ孤独な自意識に悩む ∴身辺に起こる出来事は、些細でも屈折した自意識過剰ゆえに歪み拡大され人々を混乱へ巻き込む Danish記述 → 注目されなかった → ある牧師がドイツ語翻訳 → 実存哲学と呼ばれ、Jaspers, ハイデッガー、サルトルら影響受ける。時に、この問題意識が「哲学」の代名詞とされる。古代(ソクラテス、プラトン)、中世(アウグスティヌス)等もこの視点から読み直される キルケゴール実存哲学: ドイツ観念論的立場を継承しつつ、批判から生じた イギリス経験論やフランス合理論のような真理の客観的科学性に反対 ドイツ観念論的に主観的内面性を重視 世界の外から傍観的に静的に認識し、世界の中へ主体的に動的に関係することが哲学の本分 主題: 特定(単独者)の具体的、現実的「この私」 → それまでのドイツ観念論は普遍的・抽象的問題扱う「この私」の存在 → 観念的類型として解消されず、特殊性に基づく決断に迫られ、苦悩をかかえ彷徨 ↔ 彼の実存哲学は「如何に人はキリスト者になるか?」という問題意識 = 前提「人は神と共にある」 → 礼拝だけでは不十分 → 彼のキリスト教教会批判の主眼 礼拝される神と礼拝する人との間に、越え難い絶対的な質的断絶 → 人は、神を崇めるのでも否定するのでもなく、神でありながらこの世に受肉し、苦しみ果てた、みすぼらしきキリストの逆説をそのまま信じ、そして自分もキリストと共にあるべく現実を主体的に生きねばならない 「死にいたる病」 Sygdommen til doden 1849イエス = 病人の死に臨み「この病は死には至らず」キリスト教信者: 肉体滅びる ≠ 死 → (自己自身への)絶望 = 「死にいたる病」 = 最大罪 → 人間 = 精神(自己自身に関係する関係) 自己の総合は常に自己の分裂という絶望の危機に頻する それまでの自己を脱し自分で決めた別の自己になろうとするが、彼はまた絶えず自分の望まざる自己であるよう強制される。絶望すると、絶えざる死を生き続けねばならない → 絶望の病は、普遍的 自己の有限性を忘れる = 自分を無限者と考える ↔ 自己の無限性を忘れる = 自分を平凡人と考える 必然性忘失 = 今ある現実忘失 ↔ 可能性忘れる = なるべき希望を見失う |
絶望: 意識的自覚の有無 – 意識が自分自身への関係であるがゆえに、自覚の深い後者ほど絶望も深い
無知の絶望: 自己の絶望知らない = 知りえない → 弁証的(逆証的)救済可 契機から言えば、有限性/無限性、可能性/必然性に関し、一方の欠乏により他方へ絶望すること
弱気の絶望: 自己の絶望を知りながらも自己であろうとせずにいる 神前での罪
キリスト教の言う罪: 正しいことに無知なのではなく、知ろうとしないこと、知っても知ったように行為しないこと 罪を知り、その罪に絶望するという意味で、絶望という罪は積極的 罪に留まることは、罪を重ねる罪であり、罪に留まる各瞬間に罪は増大する。このような自己の罪への絶望、自己の罪への許しへの絶望、更には、キリスト教を否定し罪を罪と認めない絶望へと罪を悪化させるキリスト教: 救済道教授 + 弁証的(逆証的)に救い難い絶望の罪への道も開く 質的弁証法 qualitative Dialektik神と人 = 単なる量的差異 → 連続的発展段階神と人との間: 礼拝される者と礼拝する者 - 越え難い絶対的質的差異 = 断絶 イエス・キリスト(無限なる神かつ有限なるみすぼらしき人)の逆説への現立(実存)への信仰で越える 実存(「あれかこれか」等)人間は自己であるのではなく、自己になるのであり、このような存在の仕方ヘーゲル: 「Exisutenz」は、[根拠が自己を揚棄(廃蔵)し出現すること] キルケゴール: 根拠を実現していくあり方 - 人間独特 = 独自哲学展開上の鍵概念 私が思考すればするほど私は存在せず、私が存在すればするほど私は思考せず、主体性が真理であり現実である。しかし、実存を思考する者こそ実存する。なぜなら、実存というあり方は、いかなる自己になるかの決断を常に迫られている。この問題は、抽象的、類型的、一般的な形骸的人間のものではない。具体的、唯一的、個別的な現実の私だけのもので、<単独者>として状況に立ち向かい、神に対しあるべき自己になろうと実際に行為せねばならない 実存 existence「人間の現実存在」の略語とし訳 → ニュアンス正しく伝えず改訳必要exisutentia: 中世来、essentia (本質、存在させるもの)に対し[存在していること]を意味
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中部ドイツ田舎町の代々牧師の家庭に誕生 1849. 7,30: 父死去 → 一家都市に引越 1858.10. 6: 修道的寮生活の公立学校入学 古典・文学・哲学・音楽・宗教等に病的なまで関心(この頃から頭痛) ボン大学入学: 神学・哲学・古典 → 古典学で精緻徹底した原文解釈(テキストクリティーク)で非凡の才 1869. 2 13: バーゼル大学教授抜擢(在学中) ショーペンハウアー「意志と表象としての世界」に感銘 → ショーペンハウアーファンでバーゼル近郊に住む作曲家ワグナー訪れ意気投合 禁欲的文献学嫌い、ロマン主義ヘ(彼自身は底の浅いロマン主義を軽蔑) 1872: 「悲劇の誕生」 → 転換宣言 → 文献学者間で最低評価(除, ワグナー支持者) → 授業出席学生皆無 → 学界から破門同然 → 1876 ワグナー親交 + 学界断絶 → 独自思想発生(『反時代的考察』) 1878 ワグナー: 「パルジファル」作曲没頭(内容, 信心なき大仰なキリスト教劇) → イカサマ師に見える 両者親交破綻 → 雑誌で罵り合うまで悪化 → 孤独 → 虚無主義を基調とし、文化、道徳、宗教等、一切の権威を箴言(アフォリズム)的文章で分析批判し相対化 + 頭痛他の病気悪化し正式に大学退く = 最悪状態 → 突然の転機 = 全て徹底的に肯定とし捉える 1882 友人パウル・レーと奔放な女性ルー・サロメとの「三位一体」な三角関係 → 小賢しい妹の介入で破綻 醜聞渦巻く中で一切の肉親友人失う → 1883「ツァラトゥストラ」10日で脱稿1888- 彼自身で語る原稿を書き始め数年間に爆発的著作を記し発狂 → 名声高まる(自身は知らずに廃人) 哲学変化: ロマン主義 → 虚無主義(厭世的) → 肯定主義
ショーペンハウア後継者自認 → 徹底的に否定的に継承 ニーチェ思想: 断片的箴言、疑似神話の形で語る → 絶対的権威を見失った「神の死」「ヨーロッパの危機」「世紀末」時代に、実存哲学から文学、芸術、宗教、社会、政治まで影響 WWII ナチス: ニーチェ歪曲化し思想的支柱 → ニーチェ = 暴力的思想 第1次大戦後: ドイツ世界恐慌(→ 戦勝国側の独善的要求承認) → 絶望的 民族の開き直り - 強硬策へ政治的転換 → ニーチェ的あり方を体現 ニーチェ思想根本は、ペシミズム(厭世主義)からここまで落ちれば恐いものはないニヒリズム(虚無主義)へと内面的決意の転換問題 + より積極的に偽善的奴隷道徳を侮蔑し自己判断の元に大胆に行動するピカレスク・ロマン(悪漢小説)性伴うアポロン的 apollonisch/ディオニソス的 dionysisch= ギリシア神話の神々: 「悲劇の誕生」等芸術を可能ならしめる根本衝動: ギリシア悲劇芸術性はこの両衝動の対立と奇蹟的結合から産まれる アポロン(光の神): 造形的で静観的・調和的 = 仮象世界に夢見て生存の苦悩克服試みる ディオニソス(酒の神): 音楽的で激情的・破壊的 = 陶酔世界に自己忘却し生存根底の永遠の一者と一体化しようとする → <ディオニソス的> 対 <ソクラテス的>の新対立がこの調和を破壊 ソクラテス的: 「美には理知的である必要」とする理論的・楽観的・批判的態度 ディオニソス的: 全体的生命を肯定する態度 → ニーチェ終生のモティーフ
宗教的人間の典型として、ディオニソスは(十字架にかけられし者)と対比 神の死「知識」等 - 狂人が市場に走り込み"神が死んだ" = 我々が神を殺した聴衆理解せず、彼は早く来すぎたことに気づく 見聞きされるまで時間かかるが、人間はこの所業をやった、と訴える 彼岸に「真」なる世界設定するプラトン・キリスト教的価値観崩壊を意味 → 神の審判も救済も否定 → 信仰に依存した欧州的なものが倒壊しする曙光 神の死後も残る神の影を払い、無意味なものが永遠回帰する開放された海への冒険へ出て行く時代 遠近法主義 Perspektivismus「権力」: 世界は自分の背後に意味を持たず、むしろ無数の意味を持つ実証主義者が言う事実は存在せず"解釈"のみ存在 → 真理: なしには生存できない一種の誤謬 世界を解釈するのは支配欲(権力への意志) → 我々の価値(Ex. 権力, 差異)を事物の中に解釈し込む 意志は、解釈規範として、権力の度合や差異という遠近法を自らに持つ |
権力への意志 Wille zum Macht「ツァラトストラ」「権力」 = 全存在者を思考しうるものにしようとする意志超人 Übermensch vs 仕舞の人 der Letzte Mensch (ツァラトストラ)超人 = 人間を超克する者= 大地に忠実な者で、彼岸の世界を説き生命軽蔑する「善い者たち」に耳を貸さず、幸福にも理性にも徳にも正義にも同情にも軽蔑を投げかける。行いより先に黄金の言葉を投げつけ、自分が約束した以上をいつも果す者であり、将来の人々を正当化し、過去の人々を救済する者 命じる権力獲得に自分自身を賭け没落を意志する。彼は創造する者であり、既成価値破壊者で悪魔と恐れられる。人間は、動物-超人間に張られた綱で、進むも退くも立止まるも危ういが、目的ではなく、越え出るべき者、没落すべき者であるが故に偉大で愛されるべき ↔ 仕舞の人: 自分自身を軽蔑できず、幸福を発明したと言って瞬きし、馴れ合い中流に甘んじ、健康を気使って、慰みにささいなことをする。力より生に執着し、蚤のように根絶し難く長生きをする運命愛 (「この人」等中期以降): 永劫回帰する運命を意志 → それに没落する 何事でも、それとは別様であってほしい等と思わず、必然的なものを耐え忍ぶだけでなく愛すること、その否定されてきた忌まわしい由来から引上げ自分自身にまで高め望ましいとする。それは、あるがままの世界を差引いたり、除外したり、選択したりせずに、全体のままディオニソス的に肯定を言うことである 永劫回帰 ewige Wiederkunft無限時間中で有限の力が展開する以上、等しいものが繰り返される世界は、永遠に戯れる海(自己創造し破壊する円環運動) 存在の車輪は永遠に廻る(存在年月は永遠循環) 永劫回帰は我々の首を締めつけ、全ては同じ = 何をしても無駄 → ペシミズム(厭世) = 意志こそが自由を齎すにも関わらず、過去に無力で、「そうであった」を「そう意志した」にできず、意志そのものは時間の囚人 「かつても、今も、今後もそうであったことこそを意志する」なら、意志は意志を閉じ込める時間と和解し、自分の運命としてその主人となれる。永劫回帰を意志し、自らの権力に収め、「これが人生ならもう一度!」と、永劫回帰中へ我身を没落させペシニズムは快癒する。運命を語るのではなく、苦難を転回する必然性とし愛し笑い飛ばし、全体のままディオニソス的に肯定を歌うべき ルサンチマン(怨恨) ressentiment「道徳の系譜」 道徳根底に生あるもの全てに権力への意志存在 = 創造のための破壊弱者は力不足の故に主人となれず内的創造へ向かい、強者の優良と劣悪からなる君主道徳 herrenmoralに対し、道徳的価値概念を作り換え、[弱者こそ正しい]という徳善と罪悪からなる奴隷道徳sklavenmoralを成立させるが、弱者の強者・現実に対する怨恨にすぎない 虚無主義(ニヒリズム) nihilism様々な意味で、虚無(ニヒル)を主張する立場当初: 政治的社会主義運動 - 権威や価値、秩序を否定的に冷笑する立場 = アナーキズム(反アルケー(集権)主義)として集権的政府否定を意味 → アナルコ・サンディカリズム(反集権・組合主義)に変化政党による自分達の政治運動すらも否定し、任意組織(組合)によって直接行動に訴えるべき → 暗殺暴行等ゲリラ的破壊的行動に訴えるテロリズム(恐怖主義)につながるこの傾向は、近代化改革難航した19世紀後半ロシア知識層で顕著 欧州危機: 否定的態度は内面に向き、現実・理想に幻滅し、生きる意味を見失い惰性で暮らす憂鬱で無気力な気分がヨーロッパ世紀末を彩るニーチェ: この気分を体験しつつ、哲学的問題とし大転換を施し克服 現実に幻滅し、怨恨から理想にすがりペシミズム(弱きニヒリズム)を抱き、偽善に満ちた奴隷道徳を社会に押しつけるが、文化退廃し神を殺す仕業であり、すがる理想も擦り切れ「神の死」に至り、現実にも理想にも幻滅 → 理想を掲げるプラトン・キリスト教的価値観こそ強きニヒリズムに否定される ニヒリズム: 最高価値が価値を失うこと 目標欠け、「何のために」への答えが欠ける。その前に、「何のために」が否定されるべきで、[現実以外に何もない]。この現実への開き直りから人それぞれが決断行動せねばならない (富増 2011) 精神変化のスリーステップ⇑ 小児新しい価値の創造 無邪気・無垢・肯定_____→ 瞬間がなんでも楽しい! 「然り」と言う聖なる発語 (人生の肯定) ⇑ 獅子_______________vs 竜 自らの道を進む_________伝統・権威 闘いを挑む____________(プラトン主義など) 「われは欲す」__________「汝なすべし」 ⇑ ラクダ 重い荷を背負う 価値への服従 (ショーペンハウアー・ワーグナー) |
1905.06.21 パリに生まれる。父: 海軍技術将校(30歳で死去) 1915.10 アンリ4世校中等部 通学生 1924 同人誌に短編「病める者の天使」 - 「一指導者の幼年時代」の原型 1924 高等師範学校入学 - 同期生 レイモン・アロン、モーリス・メルロー=ポンチー、シモーヌ・ド・ボーヴォワール(内妻)、ジョルジェ・ポリツェル 1929-1931.04 兵役(気象班)実存主義: 現実的個人のあり方(実存 existence)を理解 - 合理主義思想批判 人間実存の本質 = 自らの「自由」により行為を選ぶ必要(選択の自由)
= 人間は自由の刑に処せられている 無化 neantisation: 無 = 存在につきまとう = 存在の表面にしか存在しえない 無の存在 = 知覚され存する = 無は存在させられる 即自en-soi 存在 = 肯定 → 無化する存在は、自己の存在に関し、自己の存在において無化せねばならない ⇒ 対自pour-soi 存在であり、問いかけにおいて相手を無化し存在と非存在の中立にし、更に自己を無化し即自存在から自己を引離す二重の無化を行い世界に否定性を導き入れる |
1964 自己欺瞞 mauvaise foi: 意識は、それにとってはその存在においてその存在の無の意識があるようなある存在で、世界中に否として出現する。このような意識がその否定を自分自身に向ける態度が自己欺瞞である 世界で20億人が飢餓 ↔ 文学に専念 = 自己欺瞞 意識: 真実を覆い隠し、虚偽を真実として表す誠実: それがあるところのものであるということであり即自である 自己欺瞞や誠実が成立つのは、人間が、未だ、それがあるところのものではない、それであらぬところのものである、対自に他ならず、人間は、本質的に自由であるべく呪われている 眼差 regard: 対象となりえない主観 他者は、私にとって対象たりえない私をも対象とするため、私と共に双生児的に私の宇宙を崩壊させ内出血のように出現する。私が他者を見ていることの真理は、私こそが他者によって見られていることである。他者は、眼差として、私から可能性を奪い他有化するが、それは私の超越される超越にすぎず、私は私の可能性を外部の他者を通し捕える。ただし、私の可能性は蓋然化し、私は状況の主人ではなくなる |